マラソン五輪代表選考会「名誉と利権」でもめた人間臭い歴史 (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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マラソン五輪代表選考会「名誉と利権」でもめた人間臭い歴史

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武田薫週刊朝日#2020東京五輪
88年ソウル五輪男子マラソンで、9位でゴールした瀬古利彦 (c)朝日新聞社

88年ソウル五輪男子マラソンで、9位でゴールした瀬古利彦 (c)朝日新聞社

64年東京五輪バレーボール女子決勝のソ連戦で、日本はお家芸の回転レシーブが炸裂した (c)朝日新聞社

64年東京五輪バレーボール女子決勝のソ連戦で、日本はお家芸の回転レシーブが炸裂した (c)朝日新聞社

 10月10日で1964年東京五輪からちょうど55年。来年7月には五輪が東京に戻ってくる。日本の人気種目、マラソンを中心に振り返ると、五輪は名誉と利権を求めて毎回のようにもめてきた、人間臭いストーリーにあふれていることがわかる。スポーツライター・武田薫氏が五輪の歴史と魅力を紐解く。

【写真】64年東京五輪で「東洋の魔女」が炸裂させた回転レシーブがこちら

*  *  *
 アジアで初めて開催された64年の第18回オリンピック競技大会では、幾つもの忘れられないシーンがある。この大会で日本勢最初の金メダルを“差し上げた”三宅義信、「東洋の魔女」が見せた回転レシーブ、アントン・ヘーシンク(オランダ)に抑え込まれた柔道無差別級の神永昭夫……。

 そして、国立競技場でベイジル・ヒートリー(英)に抜かれた円谷幸吉のあえぐ足取りは、その後の自死という悲しい結末とともに語り継がれている。

 円谷のメダルは、日本が最初に参加した12年ストックホルム五輪の金栗四三からの悲願であり、衝撃の結末でもあった。円谷はトラックの選手だと思われていたからだ。

 64年4月の日本代表最終選考会では、君原健二、円谷、寺沢徹の順にゴールした。君原と寺沢は既に実績を積んだマラソンランナーだったが、円谷は1カ月前の初マラソンで5位に入ったばかり。“駆け出し”が代表になるとは誰も思っておらず、3位なら代表は外されていたとさえ言われた。“幻の代表”が選考会4位の土谷和夫だ。

 土谷は実業団を経て日大に入り、天才ランナー・澤木啓祐の天敵だった。インカレ(日本学生対校選手権)では5000メートル、1万メートルの2冠を2度達成、箱根駅伝では4年連続区間賞で日大黄金時代を築いた、誰もが認めたスピードランナーだ。

 円谷を推したのはスピードマラソンを実感していた織田幹雄・陸上競技総監督だが、トラックの実績では土谷のほうが上だから、やはり選考会の2位が決め手だったのだろう。五輪の本番で君原、寺沢は実力を発揮できなかった。円谷の“未知の力”“無知の力”がもたらしたメダルと言えるかもしれない。


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