「田舎の高校生にすれば、『思想の科学』はたいへんな情報源でした。これによって社会の動きを知り、論理的な思考方法を身につけることができました。影響を受けたのは花田清輝でしょうか。彼の文体は皮肉、洒脱、屈折、そして華麗さがあり、わたしもああいう文章が書けるようになりたいと思ったものです。だけど、こういう話を共有できる友人や教師が周りにいなかった」

 これがおもしろくない教師へのいらだちであり、17歳の上野さんはこう吐きだしている。

「今の高校教育は、しかし学問などといえたものではない。あるのは断片的な知識の切り売りと、無意味な叱咤激励ばかりである」(二水新聞)

 受験のための勉強への批判でもある。

 上野さんは優等生だった。金沢二水高校にトップの成績で合格しており、2位以下を大きく引き離している。学年が上がっても、高校での成績は上位を続けていた。しかし、3年になって一度、男子に追い抜かれたとき、先輩女子から、「やっぱり、3年生になると男子は違うわね」と言われてしまう。

「頭にきました。これでわたしに火がついた。男の子は晩熟、女は早熟と信じられていた時代ですが、わたしはおかしいと思い、京大受験に向けて猛勉強をはじめます。塾にも予備校にも行かず、学校も頼らず自分で取り組みました」

 67年、京都大文学部に合格した。定員200人、志願者1453人、受験者1303人、合格者204人。6.5倍という難関だった。難易度は旺文社模試によれば、東京大文科三類に次ぐ2番目。

 上野さんはほかに関西の私立大学に合格したが、京都大以外、考えられなかったという。それは、受験前の大学見学ツアーが大きい。

「関学大はキャンパスがきれいすぎて合わない。同志社では男女が手をつないで歩いていた。京大ではみんな暗い顔して一人で歩いていました。それを見て、わたしが行くところはここだ、と思ったのです」

 知的探究に飢えていた上野さんにすれば、京都大の暗い顔の学生に、知を追い求めている姿を見たのかもしれない。

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