『日本人のための憲法原論』は、まさにそのような試みだ。著者の小室直樹は、憲法を生み出した欧米社会の歴史やその根本にあるキリスト教の考えを示しながら、憲法とは「国家権力すべてを縛るために書かれたもの」だと解説する。つまり憲法とは、暴走しがちな統治権力を制限するものなのであって、国民の権利を制限するものではない。だからこそ、大日本帝国憲法の起草に関わった伊藤博文も、憲法の精神として「君権の制限」と「臣民の権利保護」を掲げたのである。国民に義務を課すかのごとき、自民党の改憲草案が誤っているゆえんもこれをみれば明らかだろう。

 もとよりここで改憲自体を否定しているわけではない。小室は、憲法が廃止されなくても、その精神が無視されれば、憲法は有名無実になるとして、ヒトラー政権下のワイマール憲法をあげた。日本国憲法も、その精神を守るため、現実にあわせて改正したっていい。

 ゲンロン憲法委員会の「憲法2・0」は、その点で興味深い取り組みである。この草案は、「フローとしての日本」と「ストックとしての日本」の両立を基本理念としている。現憲法の制定時から世界情勢は大きく変わった。「国難だ。憲法云々といっている場合ではない」との叫びが聞こえてくる今日、グローバリズムとナショナリズムの両立に気を配りつつ、立憲主義も守ろうとする同草案はもっと参照されるべきだろう。

 いうまでもなく、特定の改憲案をそのまま受け入れよといっているのではない。重要なのは、ああでもない、こうでもないと、われわれが憲法について思考実験することだ。振り返れば、現憲法の起草と制定は、けっして国民的な議論にもとづくものではなかった。和田登の『踊りおどろか「憲法音頭」』は、そのことを間接的に示している。政府は新憲法を普及させるために、「憲法音頭」や「新いろはかるた」などをたくさん作った。だが、その手法は戦時中の軍歌や標語などと大差なかった。「上から」普及させるだけでは、憲法の精神は守られない。

 現憲法もやがて改正のときがくる。そのときまでに、われわれはどれくらい真剣に憲法について考えられるようになっているか。「護憲か改憲か」の単純な二項対立だけは、そろそろ卒業しなければならない。

つじた・まさのり=1984年、大阪府生まれ。慶応義塾大学文学部卒。著書に『たのしいプロパガンダ』『大本営発表』『空気の検閲』『天皇のお言葉』など。

週刊朝日  2019年8月16-23日号