居眠りをしていた荷風も、帰宅後玉音放送について知り、こう書き記した。「日米戦争突然停止せし由を公表したりと云う、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。

 谷崎は戦後まもなく、軍部の弾圧により発表できなくなっていた『細雪』を、荷風も戦時中書きためていた作品を戦後次々と発表した。

 弾圧により執筆禁止に追い込まれていた江戸川乱歩は、疎開先の福島県で大腸カタルと闘っている中で終戦を迎えた。「私はそのとき、大腸カタルが治らないで、骨と皮ばかりになって寝ていたのだが、その病床で、私は探偵小説はすぐに復活すると考えた」(『探偵小説四十年』)と記している。

 谷崎や乱歩のように、作品を発表する場がなくても暮らしていける財力があればまだしも、多くの作家は困窮した。例えば高見順は生きるために従軍報道班の仕事を選んだ。そして膨大な日記を残した。空襲が続く中、鎌倉から都内にたびたび出かけ、破壊されていく東京の様子をつぶさにリポートしている。その高見は終戦の日を鎌倉の自宅で迎えた。

「警報。情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。(略)『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね』と妻が言った。私もその気持だった。ドタン場になってお言葉を賜わるくらいなら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。(略)十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。(略)──遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」(『敗戦日記』)

 高見はこの後、街の様子を観察するため、新橋に出かけていった。

 愛国的な詩を書くなどしていた高村光太郎は、疎開先の花巻で終戦を迎えた。正午の玉音放送を市内の鳥谷崎神社で聞いた光太郎は翌16日、「一億の号泣」という詩を発表した。

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