そのころもう結婚していて、子どもが生まれたばかりでした。焦りがなかったわけじゃありません。

 でも金谷さんは「これからの時代」を見据えていた。それは「フレンチ」と「懐石料理」の融合です。

 バターやクリームを多く使う王道のフレンチは重すぎる。例えば「ご飯のお供“コウナゴの佃煮”でペーストを作ってパンにつけてみろ」とか「フォアグラの代わりに、アンコウの肝を使ってみろ」と言われたりしました。

 ふらっと来た料理雑誌の編集委員が気に入って、料理を雑誌に載せてくれた。それから店が繁盛しはじめました。3年我慢した甲斐がありました。

 金谷さんは77年に60代の若さで亡くなりました。入院先の病院まで、よくコンソメを作って持っていきました。「おやじ、おやじ」と呼ぶものだから、看護師たちも「息子さんが来ましたよ」と言って、親族が「え?」という顔をしたこともありましたね。

――80年、南青山に「ラ・ロシェル」を開き、独立を果たす。89年には渋谷の高層ビル最上階に出店した。しかしバブルが崩壊して……。

 高層ビルの店は何百人も収容できる広さがあって、話をもらったときは足が震えました。それでもスタッフに背中を押され、挑戦しました。最初は「こんなにもうかるのか」と思いましたが、やがてバブルがはじけ、予約ゼロという日が出てくるのです。大勢のスタッフを抱えて追い詰められ、チラシを作って渋谷の駅で配ったものです。

 そんな中、仕掛けたのがレストランウェディング。作り置きではなく、その場でアツアツの本格フレンチを出すことを売りに、必死に営業しました。ポツポツと予約が入り、ついに月に20件予約が入るようになった。落ち着いたころ、「料理の鉄人」への出演話がきたんです。

――毎回、挑戦者を迎え、テーマとなる食材をキッチンスタジオで調理し対決する番組は人気を集めた。5年半出演し続けた。フレンチと懐石の融合を目指してから40年以上が経ち、いまや世界中のシェフが和食を学びにやってくる時代を迎えた。

 日本に来たフランスのシェフたちがまず持ち帰るものはなんだと思います? 昆布とかつお節。時代は変わりました。

 でも、いまも昔も変わらない思いが僕にはあります。料理は義務で作ったらダメということ。自分もつまらないし、お客さんにもいいものを出せない。楽しく作ることです。

 それと人と同じことをやっていてもダメ。重たすぎずヘルシーで、今日食べても、また3日後、1週間後に食べたくなるような……。そんな料理を、77歳になったいまも目指しているのです。

(聞き手/中村千晶)

週刊朝日  2019年8月9日号