西武ではチャンスに代打を出され、とうとう辞めることを決めました。監督と球団代表に、

「今シーズンで辞めます」

 と伝えたとき、少しぐらい引き留めてくれるかと思ったら、

「ご苦労さん」

 とあっさりとしたものでした。

 実は、自分では50歳まで現役を続けられる自信がありました。でも、自己評価と他人の評価には違いがあったようです。これはいつの時代も同じでしょうね。

 世渡りが下手ですから、どこの球団も声をかけてくれなかった。野球評論家として解説をしたり、記事を書いたりしはじめました。

 沙知代がマネジャーになり、その頃盛んになっていた講演を、よくやらされました。1日3回もさせられ、

「殺す気か」

 と言ったこともありましたね。

――生まれ育ったのは、京都の日本海側にある小さな町。父親は野村さんが幼い頃に戦死し、病気がちの母親に育てられた。

 まさに「極貧」でしたから、物心ついてから、早く大金を稼いで母親に楽させてあげたい、といつも思っていました。

 それには野球選手として、チャンスをつかむしかない、と考えました。

 でも田舎の無名な高校生でしたから、スカウトなんて来やしません。そこで南海ホークスの入団テストを受けたんです。

 全球団のキャッチャーの顔ぶれや年齢を調べ、どこならレギュラーに近いかを考えましてね。テスト生から1軍にあがるのは実に狭き門です。私も、1年目のオフにはクビになりかけました。

 あのとき、巨人とか阪神とか陽の当たる球団に行っていたら、そのまま消えてたでしょうね。そういう球団は、スター選手にしか興味がなく、無名の選手を育てる気はない。こっちはこっちで萎縮してしまったでしょう。

 600号ホームランを打ったとき、王や長嶋がいつも太陽を浴びているひまわりだとすれば、こっちは人目にふれないところで咲く月見草、というふうに会見で語ったものでした。

 ONへのひがみも入ってますけど、目立たない場所でひっそり咲く花があってもいい、だからこそ自分の持ち味を生かすことができた、と思っています。

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