と結構本気で言ってみたが、マリア様は何も言わなかった。大センセイ、マリア様はなぜ蛇を踏んづけているんだろうなんて疑問に思いながら、深夜の礼拝堂を後にしたのだった。

 後日、この夜のことをI先生に話すと、先生はこんなことを話し始めた。

「ヤマダさん、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という小説を読みましたか」

 読んだ。たしか、地獄に落ちたカンダタとかいう男が仏様の垂らしてくれた蜘蛛の糸に縋(すが)って地獄から脱出しようとするのだが、下を見るとたくさんの人が同じように糸に縋っている。これじゃ糸が切れると思って「降りろ!」と叫んだ瞬間、プツッと糸が切れて再び地獄に落ちてしまうという話だった。

 下りのジェットコースターに乗り続けている身には、耐えがたい内容だ。

「では、どうして糸は切れてしまったんでしょうか」
「たしか、自分だけ助かりたいというカンダタのエゴイズムが、仏様の気に障ったというような……」
「仏様って、そんなに心が狭いんでしょうか」
「……」

 大センセイが沈黙すると、I先生はこう言った。

「なぜ糸が切れたかといえば、切れるかもしれないと疑ったからです」
「えっ、だってものすごく細い蜘蛛の糸ですよ」
「疑わなければ、糸は切れなかった。信じるとはそういうことです」

 大センセイ、鬱の地獄から生還した。キリスト教には入信しなかったが、マリア様の足元に縋って泣いていた自分を思い出す。

週刊朝日  2019年5月17日号

著者プロフィールを見る
山田清機

山田清機

山田清機(やまだ・せいき)/ノンフィクション作家。1963年生まれ。早稲田大学卒業。鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(第13回新潮ドキュメント賞候補)、『東京湾岸畸人伝』。SNSでは「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれている

山田清機の記事一覧はこちら