この記者会見が、04年5月。その2カ月後に雅子さまの病名が「適応障害」と発表された。

 当時「週刊朝日」副編集長だった私は、この会見以来毎週のように皇室記事を担当した。だが雅子さまがなぜそこまで追い詰められたのか、なかなか理解することができなかった。

 ただ一つだけ、思い当たることがあった。それは、雅子さまが「男女雇用機会均等法(均等法)第1世代」ということだった。

 この法律が施行されたのが86年4月1日。女性だという理由で雇用の機会から締め出すことは、法律上できなくなった。罰則規定がないなど問題点は多々あったが、この法律で女性の社会進出がグッと進んだことは間違いない。そして86年から90年の5年間に「総合職」として入社した女性は「均等法第1世代」と呼ばれている。

 先ほども書いたが、私は共通1次1期生だ。だが、就職したのはこの法律施行の3年前。自分と比較することで、均等法第1世代の特徴がよく見えた。その結果、私は彼女らを「約束と違う世代」と名付けるに至った。

 少し説明するなら、会社というものは基本「男性ファースト」だ。均等法以前に入社した私などは、「ま、そんなもんだろうな」と受け入れていた。だが、彼女らは違った。均等だったのは雇用機会だけという現実に、「約束と違う」と憤っていた。彼女らを目の当たりにし、真剣さに打たれた。

 雅子さまがハーバード、東大を経て外務省に入省したのが87年。まさに均等法第1世代だ。外務省時代にオックスフォードに留学した雅子さま。「お后候補」として追いかけてきたメディアに対し、「外務省の省員として、ずっと仕事を続けていくつもりです」と答えた。働くことに張り切っていたのが、均等法第1世代だ。それでも陛下は雅子さまへの愛を諦めず、雅子さまも受け入れた。

 93年1月、皇室会議で婚約が決まった直後の記者会見では、「いろいろと考えた結果、今私の果たすべき役割というのは殿下のお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることなのではないか、と考えましたので、決心したわけですから」外務省を辞めることに悔いはない、と答えた。

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