こんな理不尽なことはないと、何度か退部届を出しにいきましたが、ぜんぜん聞き入れてもらえませんでした。しょうがなく猛練習してたら、運よく甲子園に出られました。

――1958(昭和33)年の第40回全国高等学校野球選手権大会に出場した徳島商業は、エースの板東の活躍で勝ち進んだ。準々決勝の魚津高校戦では、延長18回を完投したが0対0で決着がつかず、翌日に再試合となる。この大会で板東が残した通算83奪三振の記録は今も破られていない。

 再試合と準決勝は勝ったけど、決勝はもう肩が限界で、柳井高校に7対0で負けました。奪三振の記録は、人が言ってくれるほど特別な思い入れはありません。なんせ1試合で15以上の三振を取らないとコーチにどつかれるから、本能的に投げてただけなんですよ。

 高校を出たあと、大学のセレクションに合格したんですが、結局は中日ドラゴンズに入団することになりました。おやじが決めてしまったんです。おふくろは、「嫌やったら逃げてもええよ」と言ってくれたんですけどね。

 入団したのは昭和34(59)年。いまから60年前の契約金2千万円はそれは値打ちがありましたが、全部、親に渡しました。

 ところが、何カ月かして家に帰ったら、おやじが布団かぶって寝てる。株に手を出して、ほとんど使ってしまったらしい。あまりのことに、あきれて怒る気にもなりませんでした。

 甲子園では騒がれましたけど、プロ野球に入ってすぐ、オープン戦で西鉄の稲尾和久さんや南海の杉浦忠さんの球を見て、悟りました。

 これはとてもかなうわけない、と。

 ロバはどうやっても、サラブレッドには勝てません。それに高校時代の酷使で、肩やひじはもうボロボロでした。

 いつクビになってもいいように、1年目のオフからいろんな商売に手を出してました。中古のジュークボックスの販売、牛乳屋……。オフにマッサージの資格を取って、マッサージ屋もやってました。そのうち、4階建てのビルを買い取って、サウナやナイトクラブも始めたもんだから、もう大忙し。とうとう過労でぶっ倒れました。

 プロ野球の成績は、11年いて通算77勝です。高い契約金をもらったわりには、たいしたことありません。ぼくは野球の世界では勝てなかったんです。

――明るいキャラクターと巧みな話術。引退後、野球解説者やラジオパーソナリティーとして、新しい道を歩き始める。

 人生で何度か大事な出会いをしていますが、その頃に知り合って、師匠と言える存在なのが、上岡龍太郎さんです。あの人との出会いがなかったら、この歳までタレントの仕事はできてないでしょうね。

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