※写真はイメージです
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 ミステリー評論家の千街晶之氏が選んだ“今週の一冊”は『ついには誰もがすべてを忘れる』(フェリシア・ヤップ著、山北めぐみ訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、1167円)。

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 ミステリーの世界に記憶喪失の主人公を初めて登場させた作家が誰なのかを確認したことはないが、現在に至るまで、記憶喪失テーマのミステリーが数えきれないほど大量に発表されていることは間違いない。あまりに多すぎて、このテーマで新味を出すことは、もはや難しいように思えてしまう。

 しかし、そんな記憶喪失ミステリーにも、まだまだ新たな切り口が存在するということを教えてくれるのが、クアラルンプール出身でロンドン在住の作家フェリシア・ヤップのデビュー作『ついには誰もがすべてを忘れる』である。

 早い段階で明かされるように、作中の世界は、人口の70パーセントを占める、前日の出来事までしか記憶できない「モノ」と、残り30パーセントの、前日と前々日の出来事までを憶えていられる「デュオ」という2種類の人類が存在するパラレルワールドである。家柄や身分ではなく記憶力の差による格差社会が形成されている状態だが、それ以外は私たち読者のいる社会と大差ないようで、作中の世界にもスティーブ・ジョブズやクエンティン・タランティーノがいるらしい。

 モノのクレアとデュオのマークのエヴァンズ夫妻は、周囲の反対を押し切って結婚して20年。二人の仲は既に冷えきっており、クレアは抗うつ剤を常用している状態だ。ある日、エヴァンズ家に主任警部のハンス・リチャードスンが現れ、ソフィアなる女性が変死した事件についてマークから供述を取ろうとする。その時の警部の発言から、クレアは夫がソフィアと深い仲にあったことを知ってしまう。

 警部がマークに疑いの目を向けたきっかけはソフィアの日記だった。17年間精神科に入院していたソフィアは、マークに対して復讐を目論んでいたらしい。だがそこには、彼女がすべての記憶を保っていられる特殊な人間だという、到底信じ難い記述もあった。

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