どうしようもないことですからね。だから、私にとって福井はとてもつらい土地なのです。私は中学2年生でした。

――多感な時期のこうした体験が、作家としての視座につながっているのかもしれない。東京へ戻ると、以前通っていた日本女子大学付属高等女学校に復帰。大学を卒業するも、就職はしなかった。

 卒業間際、踊りのお稽古仲間が「将来何になりたいの?」って聞くんですよ。答えに窮してたら「あなた踊りは上手だけど、忘れっぽいのよ。それじゃ師匠は務まらないわよね。ほかに取りえはないの?」って。まあはっきり言う人でねえ(笑)。それで、昔作文で褒められたことならあるって話したら、「いい先生について修業するべきよ!」ってね。銀行頭取のお嬢さんで、思い立ったらすぐ行動、の人だったんです。

 お父様の知己を頼って紹介してくださったのが動物作家で児童文学者の戸川幸夫先生。その戸川先生から「もっと幅広く人間を描ける先生を」と紹介されたのが、長谷川伸先生だった。それで、長谷川先生が主宰していた小説勉強会「新鷹会」の門下生になったんです。

 そこにはそうそうたる先輩方がいらっしゃいました。村上元三、山岡荘八、池波正太郎……。女性は2、3人しかいなかったわね。そこに夫(平岩昌利さん)もいたんです。若手は私と夫ぐらいでね。あとは大先輩で。とにかく手探りだったけれど、ここから文学修業が始まりました。

 長谷川先生からは、小説は筋立てじゃない、人間を描けって言われました。それにはいろんな人に会い、好奇心をもって人や物事を見ないと。いい面も悪い面もあるのが人間ですから。

 もう一つ、「芝居はいいが、テレビやラジオ、特に映画の脚本など手を出すべきではない」とも。その真意は……うーん。やっぱり派手な世界だからでしょうね。実力もつかないうちに、ちょっとヒットするとちやほやされるようなところに身を置いては才能をつぶしてしまう、とおっしゃりたかったんでしょう。

――師匠の言葉もあって、平岩がテレビドラマを手がけるようになったのは、自ら積極的に売り込んだ結果ではなかった。作家としてデビューしたが、ある事情から仕事が来なくなったのがきっかけだった。それには直木賞の受賞が関係していた。

 おかげさまで、27歳のときに『鏨師』で直木賞をいただきました。とにかく人間を見つめなさい、描きなさい、という教えのたまものです。

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