おふた方は、それぞれ独自のユーモア感覚をお持ちなのだと妙に感心したものです。

 ちょっとした会話から、陛下の素顔を垣間見るような場面もありました。

 関西への行幸啓にお供したときのことです。新幹線の列車が愛知・岐阜・三重県の濃尾平野を流れる木曽三川の木曽川に差しかかると、陛下は年配の侍従である八木貞二侍従を呼んでこうお聞きになりました。

「三つの川の順番はどうでしたか」

 すると八木侍従は、「さあ、いかがだったでございましょうか」と、とても困った表情でお答えする。

 1年ほど経て同じ場所を列車で通過した際も、陛下と八木侍従は、まったく同じ会話をなさる。木曽三川とは(東から西に向かって)木曽川、長良川、揖斐川のことで、私は三重の生まれなので、よく知っており、博識な陛下もご存じないわけがありません。八木侍従もさすがに三つの川の順番は覚えていたに違いありません。

 八木侍従は、陛下が皇太子時代の64年から99年まで長年お仕えした人で(新米侍従であった私はいろいろ教えて頂きました)、陛下にとっては気を許せる側近のお一人であったはずです。この場所に来るといつも繰り返されるこのやり取りは、「儀式」、あるいは一幕の芝居のようなもので、陛下は八木侍従とこの芝居を演じることを楽しんでおられたのではないかと、いま振り返って思います。横から私がおふたりの会話に入って三つの川の順番を得意げに言わなくて良かったと思います。

 両陛下が婚約中だった60年前。皇太子だった陛下は、美智子さまに「家庭を持つまでは絶対に死んではいけないと思いました」と、話されたと伝わっています。そのとおり、両陛下のご家族へのまなざしは、とてもやわらかなものでした。

 両陛下は、長女の黒田清子さんのことを、「サヤコちゃん」と優しくお呼びになっていました。

 あるとき、陛下は檜扇菖蒲(あやめ)の花を指して、「これは紀子ちゃんのお印(皇族方が身の回りの品につけるシンボルマーク)です」と、私に教えてくださったこともありました。そのとおり、相手の名前を優しく呼ぶ様子からは、両陛下が築き上げてこられた、「家庭」に流れる温かな空気が伝わってくるかのようでした。

 侍従を離れて外務省に戻ったあとも、お誕生日のお茶会などで両陛下にお会いする機会を頂きました。いまは報道で拝見するばかりですが、退位なさったあとは、おふたりでゆっくりとお過ごしになって頂きたいと思います。

(聞き手/本誌・永井貴子)

週刊朝日  2019年4月19日号)