「テレビで、姉の家が流されていた。姉にも父にも連絡がつかない……」

 そう告げた後、横を向き、それ以降、陽子さんは話をすることはなかった。

 娘のことも手につかず、家族の安否もわからないまま、時間だけ過ぎる。陽子さん自身も日々体調が悪くなっていく。いつ最後のときを迎えてもおかしくなかった。

 震災から4日後。回診で病棟を訪ねると表情が明るい。そんな力が残されていたのかと思うほど、しっかりと土井医師の手を握った。

「姉も、父も見つかったんです。電話がかかってきたんです。2人とも避難所にいました!」

 午前8時半のことだったが、そこから病状が急に悪化した。

「意識が混沌(こんとん)とし始め、昼過ぎに亡くなりました。おそらく避難所の家族にメッセージは伝えたのではないでしょうか。患者さんの強い祈りが奇跡を起こしたとしか思えません」(土井医師)

 昨年夏、土井医師は東北の被災地を訪れ、陽子さんの家族が住んでいた辺りを巡った。

 提案を受け置き始めたノートは2冊目になった。土井医師もときどき目を通す。

<泣いて1年過ごすよりは笑って1年過ごすほうがいいと、なるべく笑って過ごしています>

<僕は一生懸命働くこと、君(妻)は一生懸命に前向きに病気に向き合うこと>

<「祝5年」>という文字に、別の患者が<おめでとうございます!>と書き添えたものもあった。

 ノートにはこれからも患者の思いが刻まれ、みんなの懸け橋になっていく。

■障害者の家族への思い、在宅医へのきっかけに

 次に紹介するのは、医師の進むべき道を決めた患者たちの話だ。

 今でこそ在宅医や家庭医が注目されているが、その先駆けが栃木県小山市にいる。訪問診療・看護を行う医療法人アスムスの太田秀樹医師だ。在宅医歴は27年に上る。

「僕が在宅医療を始めるきっかけをつくってくれたのは、障害がある人たちです」

 整形外科医として大学病院で手術に明け暮れていたとき、医局のローテーションで国立療養所足利病院(現在は保健医療・福祉施設あしかがの森足利病院)に派遣された。

「そこには自分の身に危険が迫っても避けることもできない、重い心身障害児が生活していました。『児』とはいっても、多くが成人でした」(太田医師)

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