堺屋太一さんは時代を鮮やかに切り取ることができる稀有な存在だった(撮影・長谷川唯)
堺屋太一さんは時代を鮮やかに切り取ることができる稀有な存在だった(撮影・長谷川唯)
17日に行われた堺屋さんの告別式(撮影・多田敏男)
17日に行われた堺屋さんの告別式(撮影・多田敏男)
17日に行われた堺屋さんの告別式(撮影・多田敏男)
17日に行われた堺屋さんの告別式(撮影・多田敏男)

 万博プロデューサー、「団塊の世代」の名付け親、通産官僚、作家、エコノミスト、経済企画庁長官――。多彩な才能で知られた堺屋太一(享年83)=本名・池口小太郎=さんが亡くなり、17日、葬儀・告別式が都内でしめやかに営まれた。

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 弔辞を読んだ橋下徹前大阪市長(49)が涙を見せながら、「政治家にしてくださってありがとう。大阪万博の時は見に来てください」と語りかけた。

 発想のスケールが豪快で、時代や世相を大局観で切り取ることができる人だった。

 1997(平成9)年には朝日新聞に近未来小説『平成三十年』を連載。20年後の沈滞する日本の姿を統計やデータから描き出し、「何もしなかった日本」に警鐘を鳴らした。

 堺屋さんは本誌でも2014年夏から15年秋にかけて、連載「堺屋太一が見た 戦後ニッポン70年」を執筆した。傘寿(80歳)にあわせて、人生を振り返る書き下ろし。当初約50回の予定だったが、興が乗って、64回まで続いた。連載に連動した番外コラムも積極的で、30回も書いてくれた。

 週刊朝日副編集長として打ち合わせや取材のほか、連載後も、堺屋さんの事務所をよく訪ねた。1時間から2時間ほど、政治・経済から国際政治、地方政治や大阪のこと、そして世の流行まで、縦横無尽に堺屋節は続いた。いつも決まって「どう思います?」。若輩者の意見にも、じっと耳を傾ける聞き上手だった。

 高校時代にボクシング部に在籍して、女子プロレス好き。ヒール役を自任する尾崎魔弓さんのファンで、月刊誌で対談もしている。取材の息抜きに、破顔一笑して女子プロレスの話になることもしばしばだ。

 1970(昭和45)年の大阪万博の開催は、堺屋さんが34歳のころ。企画から運営準備まで6年近くかかわった。総入場者数はのべ6422万人。通産官僚でありながら、万博の名プロデューサーとして知られた。

 ペンネームの堺屋太一は、安土桃山時代の先祖の大阪商人から取ったと聞いた。石油が枯渇した日本を描いた『油断!』、戦後のベビーブーム世代を、地層の塊という地学用語でたとえた『団塊の世代』などがベストセラーに。

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