あれ? ん? 何も聞こえてこない。普通はここで慌てる旦那衆のセリフが続くはずなんですが、会場はシーンとしたまま。その瞬間、私の目の前を黒い物体が猛スピードで通過していきました。楽屋に響く「あにさーん、うんこしてきまーす」という無機質な声。ざわつく客席。どうやらKはお客に何も言わずに噺の途中で立ち上がり駆け出した様子。オチまであと3分なのに我慢できなかったらしい。

 5分後にすっきりした顔で戻ってきたKは座布団に座り、「猪鍋でおなかが膨れまして……」と一言。中断したところから話し始め、淡々と最後まで語りきり、楽屋に戻り私の前で、「お先に勉強させて頂きました」だと。どんな肝っ玉だよ……。Kいわく「実は最初からしたかったんですよ。いやー、エアとは言いながらうんこ我慢しながら夜回りしたり、猪鍋食べるのってあんなにつらいとは思いませんでしたよ(笑)」。

 主催者は、Kがあまりに自然に立ち上がって出ていったので「本当に夜回りに行く新演出かと思いましたー(笑)」だって。んなバカな。Kは打ち上げでお客さんから「ペーパー代」と書かれたご祝儀を頂いていましたよ。甘やかしすぎ! 「これからはトイレ済ましてから落語やんなよ」だって。子供か! 天国の文楽師匠、こんなKを師匠はどう思われますか?

週刊朝日  2019年2月22日号

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春風亭一之輔

春風亭一之輔

春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/落語家。1978年、千葉県生まれ。得意ネタは初天神、粗忽の釘、笠碁、欠伸指南など。趣味は程をわきまえた飲酒、映画・芝居鑑賞、徒歩による散策、喫茶店めぐり、洗濯。この連載をまとめたエッセー集『いちのすけのまくら』『まくらが来りて笛を吹く』『まくらの森の満開の下』(朝日新聞出版)が絶賛発売中。ぜひ!

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