病気はとても残酷です。伊藤さんの愛情深い心とは無関係に、あらゆる治療を試してみても効果は得られず、彼女は徐々に衰弱していきました。

 そんなある日、私は出張のためどうしても病院から離れなければならない日がありました。同僚に伊藤さんのことをお願いし、2日間病院を不在にしました。帰院してすぐに伊藤さんの受け答えが遅いことに気がつきました。

 おかしい。

 慌てて採血や検査を行い、データを見てがくぜんとしました。

 CRP 20mg/dl

 炎症の値を反映するCRP。施設によって正常値は変わりますが、ほとんどが1未満。20という数値は明らかに高値です。

 精査の結果、傷からの感染と判明。しかし、これまでも何度も感染症を繰り返し、抗生剤を投与してきた伊藤さんには使える薬剤が限られていました。いわゆる耐性菌の出現です。そして、長年にわたる闘病生活で伊藤さんの体力は限界に近づいていました。

 その日も朝一番に伊藤さんの部屋に向かいました。ベッドの上の伊藤さんは肩で大きく息をしていました。私が顔をのぞき込むと、包帯で覆われた左手で酸素マスクをあごのほうにずらし、大きく目を見開いて言いました。

「先生、いままでありがとう。本当にありがとう」

 それはまさにお別れのあいさつでした。

「伊藤さん、そんなお別れみたいなこと言わないでください」

 未熟だった私は、無理やり笑顔をつくって答えるのが精いっぱいでした。

 その次の日、伊藤さんは意識を失いました。それが私と伊藤さんの最後の会話となりました。

 私は自分を責めました。もしあの日、出張に行ってなければ異変に気がついて対応できたかもしれない。小さな変化に気がついてくれなかった同僚にも腹が立ちました。そして、見当違いな怒りを感じている自分にも失望しました。

「自分は医者に向いてないな」

 医者をやめようと思いました。

 京都大学の行動経済学者・佐々木周作氏らは、他人の喜びや悲しみを自分のものとして感じる共感特性の高い看護師がバーンアウトしやすい可能性があると報告しています(行動経済学 第9巻 91-94, 2016年)。利他性とは、他の人のために何かしてあげたい気持ちのこと。利他性の中でも、「純粋な利他性」と「ウォーム・グロー」に分けられると行動経済学者のカリフォルニア大学ジェームズ・アンドレオーニ博士は提唱しています。純粋な利他性を持つ人が、患者さんの喜びを自分の喜びと感じるのに対し、ウォーム・グローを持つ医療従事者は、医療行為そのものに喜びを感じる。患者さんへの共感力が強い人は、患者さんの悲しみを自分の悲しみと捉えバーンアウトしやすいのではないかと考えられています。

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「助けてあげられなかった…」