白石さんが『熱帯』を買ったのは、ある山麓に屋台を出していた「暴夜(アラビヤ)書房」。また別の人物は古本の交換コーナーで手に入れた。ともあれ、同書は読書中に消えてしまうので、最後まで読んだ者はおらず、元読者らの組織する「学団」が、記憶の継ぎはぎによって作品を「サルベージ」し、全貌をつかもうと研究を重ねている。ところが、『熱帯』にはどうしても切り抜けられない「無風帯」があり……。

 章が変わると、また違う人物の視点による『熱帯』物語が幕を開ける。

 学団員は「汝にかかわりなきことを語るなかれ」という文言に色々なところで出会う。摩訶不思議な物語は、「自分が創りだしたのか、それとも自分が創りだされたのか」という境地に至る。本を読むというのは、読み手のなかで新たに本を書くことでもあるだろう。それを言ったら、評論というのはいずれ、著作物の私物化なのかもしれない。

 さてさて、『熱帯』は読者の前にどんな姿を現すだろうか? 本書は壮大な本の冒険であり、森見登美彦の創作論でもある。時を超える語りの魔術に身をまかせていただきたい。

 最後に、100年前にイギリスの評論家が残した言葉を書き添えておこう。

「書物は、われわれが読んだそばから融けて、記憶に転じてしまう。……読んだ後に残るには、ひと叢れの印象、不確かさの霞の奥からあらわれる明確な点がほんの幾ばくか。それぐらいが精々である。そして、われわれはそうした面影を本の名で呼んでいるのだ」

週刊朝日  2019年2月15日号