赤坂よし子(あかさか・よしこ)/1960年、熊本県生まれ、東京都日野市育ち。9歳で三味線を始め、19歳で赤坂の芸者になった。笛や小唄の修業を重ね、32歳で置屋「一春本」の経営者に。35歳で一人娘を出産した。現在、現役芸者として活躍しつつ、3人の芸者を抱える置屋の女将、三味線の師匠として後進の指導に当たっている。(撮影/写真部・小原雄輝、撮影協力/赤坂浅田)
赤坂よし子(あかさか・よしこ)/1960年、熊本県生まれ、東京都日野市育ち。9歳で三味線を始め、19歳で赤坂の芸者になった。笛や小唄の修業を重ね、32歳で置屋「一春本」の経営者に。35歳で一人娘を出産した。現在、現役芸者として活躍しつつ、3人の芸者を抱える置屋の女将、三味線の師匠として後進の指導に当たっている。(撮影/写真部・小原雄輝、撮影協力/赤坂浅田)

 幼い頃に垣間見た、長唄のお稽古。それが人生の岐路となり、あれよあれよと芸者の道へ。結婚が頭をよぎったこともあったが踏み出せず、けれど子どもは欲しかった。たおやかな表情で話し、凛としたたたずまいを見せる芸者・赤坂よし子さんの半生を、キャリアカウンセラーの小島貴子さんが聞いた。

*  *  *

──19歳で芸者になり、今年で40周年。置屋(=所属している芸者を料亭などに派遣する家)のお母さん(=経営者)として、後進も育てています。芸者になろうと思われたのは?

 小学4年の頃に、母が習っていた長唄を聞いて、いいなぁと思ったことがきっかけです。学校から帰ってきたらお師匠さんが来てお稽古をしている。楽しそうだなぁと。母にねだって、私も習い始めました。その後、親が離婚し、私を引き取った父が再婚。東京の日野市に転居したんですが、中学校ではお友達がいなかったから、土日はずっとお稽古をしていました。「私はこの世界で生きていく。高校も行かない」と宣言すると両親はびっくり。でも、いろいろ調べてくれて「女性は三味線では生活していけない。芸者という道もあるみたい」と。それを聞いて何も知りませんでしたが「じゃあ芸者になる!」って(笑)。高校を卒業する頃に、両親が置屋を探してきました。

──なぜ赤坂だったのでしょう?

 その頃、隆盛だったのが赤坂と新橋。母と置屋を訪ねる日、見番がお休みで赤坂2丁目の交番へ。母がおまわりさんに「娘を芸者にしたいので置屋を探している」と言ったら、「とんでもない親だ!」って叱られました。親の借金のカタに……とか思われたのかしら。すでに、そんな時代は終わっていましたが。私は長唄で入りたかったんですが、その頃は芸者衆が300人くらいいて、長唄の芸者衆もたくさんいらして。笛吹きの置屋のお母さん(=芸者)から「舞台に立てないから笛を吹いてみたら」と勧められ、それから5年間住み込んで修業しました。

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