――72年に結婚。前後して漫画を描き始めた。影響を受けたのは、不条理漫画で知られるつげ義春。伝説のサブカル漫画雑誌「ガロ」に持ち込みをするが、当時、部数で苦戦していた「ガロ」は、「原稿料ゼロ」が当たり前だったという。

 東京に出てきたとき、知り合いの下宿にしばらく泊めてもらった。そこで知ったのが「ガロ」でした。それまで読んだことがないようなマイナーな漫画雑誌で、つげ義春さんの「ねじ式」という漫画が載っていた。とにかく衝撃を受けました。「世の中にこんな漫画があるのか!」って。芸術作品だと思いました。

 73年に入選しましたが、「ガロ」ではお金がもらえなかったんです。ダスキンでサラリーマンをしながら描いていました。

 当時は自動販売機で売られるエロ漫画がはやっていたので、そこに持ち込んで載せてもらって、ようやくお金がもらえるようになったんです。雑誌に載って「認められた、うれしいな」というのはなかったんですよねえ。それよりも絵を描いてお金がもらえるということに心が動きました。ようやく漫画一本でやっていけるかなと。

 それまでタダで絵を描くことが多かったんですよ。「描いてくれませんか」と言われて描くけれど、お金の話はまったくしない。自分としては不本意だな、と思っていた。

――81年に初の単行本を発表。シュールで奇妙な世界観が時代にマッチし、人気漫画家となっていく。同じころ、ポスターを頼まれた舞台が縁で、テレビにも出演するようになる。タレントとしても漫画家としても順調だった2001年、大きな不幸が蛭子を襲った。

 平和島の競艇場にいたら、娘から電話がかかってきたんです。「ママが倒れた!」って。妻は2年前くらいから体調を崩していたけれど、でも、まさかそんなに重大なことだとは思っていませんでした。

 タクシーで病院についたときは、もう集中治療室に入っていた。肺にできた血のかたまりが血管をふさぐ「肺高血圧症」でした。意識を取り戻すこともなく、そのまま2日後に亡くなってしまった。まだ51歳だったんです。

 本当にすごく悲しかったです。オレ、ほとんど泣いたことないんですけど、あのときだけは泣きましたね。自分の父や親戚が亡くなっても泣いたことがなくて、むしろ葬式に行くと笑っちゃって、いつも「不謹慎だ」って怒られたんですけどね。

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