開けたのは社長であった。社長は「や、これは失敬」と言って、ひとつ奥の便所へ入った。その数年後、社屋がビルになると、社長は社長室専用の立派なトイレを作った、というオチがつく。

 で、津野海太郎の新刊『最後の読書』(新潮社)の15章「でも硬い本はもう読めないよ」を読むと、嵐山光三郎の「コンセント抜いたか」という週刊朝日のコラムを、行きつけの喫茶店でたまたま手にしたとある。

 それは五月二十五日号の「愉快な病院日記」で、便秘に関する記述だった。

 一週間入院すると便秘になった。ベッドの上に寝たきりで運動しないから、出るものが出なくなる。病室の便器に座って力むと、便は肛門近くまできているのにそのあとがつづかない。

 担当医からはいろいろと薬を処方されているが下剤は入っていない。

 退院の日、糞づまりになったが、熟練の看護師が、肛門に指を入れてぐりぐりっと動かすと、するりと出た。ほっと安心して腹を撫でおろした。ありがたい。

 というぼくの一文を引用した津野氏は「十年まえ、九十四歳で亡くなる直前の母の糞づまりを、ポリエチレンの手袋をはめて指で掻き出した経験がある」と述懐している。

 日本共産党議長だったコワモテの宮本顕治が便秘で苦しんでいた九歳上の妻、宮本百合子(作家)の便を指でほじくり出してやった、という話を思い出した。

 津野氏は、週刊朝日の嵐山便秘トークに目を通してから数日後、池内紀著『闘う文豪とナチス・ドイツ』(中公新書)に目を通して、トーマス・マンが死の二十日前に「横になったまま溲瓶(しびん)へ放尿をするさいベッドやシーツが汚れた。すべて八十歳になるまで一度も経験のないことだ。不快きわまる、恥ずかしい」という独白が気にかかった。津野氏は当時のマンと同じく八十歳なので、なにかと考えこんでしまった。

 ぼくが集中治療室で一晩過ごしたときは、病院の規則で溲瓶をつけられた。ベッドから下りることも、水を飲むことも禁止であって、小便を出すたびに、看護師呼び出しボタンを押すのが面倒であった。

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