もともと好奇心が強いほうだから。東南アジアを回る船で最初に着いたのが香港の港。もう匂いが違う、景色が違う、街の喧騒も空気も違う。そこで荷物を下ろして、次はシンガポールやインドネシア、マレーシア、台湾を回った。夜、満天の星の下で夜光虫がキラキラと光る水面を前に、船の上でコーヒーを飲みながら「ああ、こういう人生もいいな」と。

 半年後に日本に帰ってくると、船乗りさんたちの家族が岸壁で手を振っていた。「もしこの仕事を続けるとすると、あんなふうになるんだな」って想像して。

 でもふと思った。「あれ、映画俳優になりたい、っていう夢はどうなったんだっけ」

――横浜の港に着いたとき、「串田和美が吉田日出子と一緒に、若い人たちを集めてまた自由劇場で芝居を始めるらしい」というニュースを聞いた。船乗りとしての将来は、そこに見えている。23歳の笹野、さあ、どうする?

 串田さんに会いに行きました。「僕も一緒にやらせてもらえませんか」とお願いして、今度は裏方ではなく「ついては、あの、役者でやらせてもらいたいんですが」と言ってみました。串田さんは「その顔で?」なんて噴き出すこともなく「いいよ、じゃあ役者でやろう」と言ってくれた。うれしかったですねえ。

 役者の道を選ぶ決め手となったのは、渥美清さん。僕にとって渥美さんの存在は、心の師というか心の支えみたいなところがあってね。「男はつらいよ」で渥美さんが石原裕次郎さんや赤木圭一郎さんのような二枚目スターとは違うところで、四角い顔で頑張っていらっしゃるのを見て、「渥美さんには近づけるかも、近づきたいな」と思っていた。

 渥美さんも若いころは、浅草の小屋なんかで苦労されたと知って「よし自分も苦労してやろう、やりたいと思ったことをしないと後悔する」って、芝居のほうを選んじゃったんですよねえ。

――こうして自由劇場で一から芝居を始めた。だが演技の勉強は、誰かが教えてくれるものではない。台本の読み方もわからない笹野は、怒られてばかりだった。

 あるとき「リチャード三世」の芝居をやることになって、串田さんに「殺し屋役な」と言われた。殺し屋はAとBがいて、自分がどっちの役だかわからない。僕は本読みのときAとBの声色を変えて、一人二役でおもしろおかしくやったんです。

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