慶應OBのつながりの強さは、ある塾員がしみじみ話す次の言葉に象徴される。

「慶應の卒業生とわかると、初対面でも昔からの知り合いのように思えちゃうんです」

 なぜ、慶應に入ると、こう思うようになるのか。

 慶應には「先生」は創設者の福澤諭吉しかいない。だから大学教授であっても、学内の掲示板では「○○××君」である。私学らしく、創設者の教えが貫かれている。

 同窓会活動とて例外ではない。福澤が慶應を構成する塾生や教職員、塾員らを「社中」と呼び、全員の協力を呼びかけた「社中協力」は有名だ。そのスローガンのもと、福澤は同窓生の集まりを大切にし、各地で開かれる大小さまざまな同窓会に進んで出席していた。東京では広尾の別邸に大勢の塾員を集めて、大園遊会を開いてもいた。

「同窓会重視の姿勢は、慶應が明治10年代に深刻な経営難に陥ったことと大きく関係しています」

 こう話すのは塾員で慶應義塾福澤研究センター客員所員の曽野洋・四天王寺大学教授だ。

「当時の塾生は士族が多くを占めていました。士族の不満は高まる一方で、西南戦争に共鳴した塾生も大勢いました。しかし、士族が食えなくなると、授業料が入らなくなるなど慶應は困ります。入学者も減り、福澤は一時、塾を閉じることも検討した節があります」

 しかし、塾員ら社中が反対し、教員が自主的に給与の一部を返上したり、塾員らの寄付金が増えたりして危機を乗り越えていった。

 福澤没後も、慶應の同窓会重視は揺らがなかった。大正時代に入ると同窓会は次第に「三田会」と呼び名を変え、地域以外の各種三田会も生まれていった。連合三田会ができたのが1930年、ホームカミングデーである秋のお祭りは60年代に入って始まった。

 実は、このホームカミングデーの行事こそ、三田会を維持、発展させる大きな原動力の一つになっている。卒業40年、30年、20年、10年にあたる年度三田会が「当番」として協力して実行委員会を作り、大会の運営にあたるからだ。

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