宮崎駿の目に涙 高畑勲さんへの弔辞で明かした“最初の作品”

週刊朝日
 今生の別れ。そして故人と送る人との生前の結びつきが手に取るようにわかる弔辞。弔辞こそ最後にして最良の手紙──。5月15日、東京都三鷹市の三鷹の森ジブリ美術館で映画監督の宮崎駿さんが高畑勲さんに送った別れの言葉を紹介する。

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*  *  *
 パクさんは95才まで生きると思い込んでいた。そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあまり時間がないなと思う。

 9年前、私達の主治医から電話が入った。

「友達なら、高畑監督のタバコを辞めさせなさい!」

 真剣なこわい声だった。主治医の迫力におそれをなしてぼくと鈴木(敏夫)さんは、パクさんとテーブルをはさんで向かいあった。姿勢を正して話すなんてはじめてだった。

「パクさん、タバコを辞めて下さい」

「仕事をするために辞めて下さい」これは鈴木さん。 

弁解やら反論が怒涛のように噴き出て来ると思っていたのに、

「ありがとうございます。辞めます」

 パクさんはきっぱり言って頭を下げた。そして、本当にパクさんはタバコを辞めてしまったのだった。

 ぼくはわざとパクさんの側へタバコを吸いに行く。

「いいにほいだと思うよ。でも、全然吸いたくなくなった」とパクさん。彼の方が役者が上だったのだ。

 やっぱり95才まで生きる人だと思った。

 1963年、パクさんが27才、ぼくが22才の時、ぼくらははじめて出会った。というより、はじめて言葉をかわした日のことを今でもよく覚えている。

 たそがれ時のバス停で、ぼくは練馬行のバスを待っていた。雨あがりの水たまりの残る通りをひとりの青年が近づいて来た。

「瀬川拓男さんのところへ会いに行くそうですね」

 おだやかで、賢そうな青年の顔が眼の前にあった。それが高畑勲ことパクさんと出会った瞬間だった。

 55年前のことなのに、なんてはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を今もありありと思い出せる。

 瀬川拓男氏は、人形劇団「太郎座」の主宰者で、職場での講演を依頼する役目をぼくはおわされていたのだった。

 次にパクさんに出会ったのは、東映動画労働組合の役員に押し出された時だった。パクさんは副委員長、ぼくは書記長にされてしまっていた。緊張で吐気に苦しむような日々がはじまった。

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