東山:ぼくは年に1、2冊ですが、葉室さんは年に何冊も本を出し続けました。それは自分でも消化しきれない葛藤があったからだと思うんです。新聞記者をされていた頃から、いろんな葛藤が蓄積していたのではないでしょうか。

朝井:『曙光』で小倉を旅したときに、「国破れて山河あり」で知られる唐の詩人、杜甫(712~770)の詩にふれていますね。<時代を詠(うた)う詩人は、今でいうジャーナリストの側面も持っていたのではないか>と喝破しておられるくだりが印象的です。

■孤独な小説執筆、後輩引き合わせ

東山:葉室さんは新聞記者の目で社会を見ていましたね。いろいろと憤っているお話を聞いていると、作家というよりも、記者の視点だと思いました。2年前に司馬遼太郎賞を取り、ようやく自分がやりたいことができるようになった、ノンフィクションにも挑戦したい、と言っていました。でも実現する前に……。

朝井:記者出身の司馬遼太郎さんを尊敬しておられましたものね。『曙光』は担当の記者さんに触発されたんでしょうか、原稿にも4回、5回と随分と手を入れられたとか。作家のエッセーというのは、どちらかと言えば瞬発力で書くものと思いますが、それを聞いて意気込みを感じました。

東山:『曙光』を読んでいると、葉室さんのことをとても身近に感じてしまいます。思い出すことが多くて、読み進めるのが大変です。

朝井:わたしも読むたびに立ち止まります。作家として生きる、日本に生きるとは……投げかけられることが多い。葉室さんの声や気配を思い出して、胸もいっぱいになるし。

東山:思い出は尽きませんね。葉室さんと対談する機会が結構あって、テッパンのネタがあるんですよ。これを出すと、会場がどっかんどっかん受ける、という。「そろそろパス出すぞ」というサインが来て、ぼくがシュートを決めたものですが、それももうできなくなりました。

朝井:酔ったときのひがみ系のネタもおもしろかった。「ぼくのところにくる女性編集者も女性記者も、みんなニコニコしているけど、本当にモテているんだろうか」とかわたしに聞くんですよ。そんなん、聞かれても(笑)。

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