(イラスト/阿部結)
(イラスト/阿部結)

 SNSで「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれるノンフィクション作家・山田清機さんの『週刊朝日』連載、『大センセイの大魂嘆(だいこんたん)!』。今回のテーマは息子の“昭和君”に伝えたい一言。「パパと呼ばないで!」。

*  *  *

 年をとってから幼い子供を育てるのは、しみじみ大変なことである。

 三年前には、昭和君にボール遊びを教えてやろうと思って多摩川の河原に連れていき、ゴムのボールを思い切り蹴り上げたとたん、ギックリ腰になってしまった。

 その場から動けなくなってしまい、激痛に脂汗をかきながら自転車を漕いで家まで帰った。

 二年前、由比ガ浜海岸へ連れていったときには、海に流れ込む小さな川をぴょんと飛び越して対岸に着地した瞬間、右のふくらはぎがバチンと音を立てて肉離れを起こした。

 右脚にまったく力が入らなくなってしまったので、妻太郎に海岸までタクシーを呼んでもらって、やっとの思いで砂浜を離脱したが、まことにぶざまなことであった。

 だが、こうした身体的な不都合の発生は、やっかいと言えばやっかいだが単純と言えば単純なものだ。ややこしいのは、心理的な葛藤を引き起こす事態である。

 たとえば、ある朝、昭和君を保育園に送っていったときのこと。隣のクラスの女の子が大センセイの元へ駆け寄ってきて、こう質問するのである。

「あのー、誰のおじいちゃんパパですか?」

 おそらくこうした表現の背後では、ふたつの考えがぶつかり合って葛藤を起こしているに違いない。

「この人、パパにしては年をとってるけど、おじいちゃんにしてはちょっと若い気がする。誰の家族か聞くには、いったいなんて呼んだらいいんだろう?」

 たとえ幼い子供の発言であっても、おじいちゃんかもしれないと疑われると、やっぱりちょっと傷つく。だからといって、「おじいちゃんじゃなくてパパだよ」と訂正するのも、なんとなく嫌なのだ。

 いや、彼女の言葉を否定するようで悪い、というわけではないのだ。「おじいちゃんじゃなくてパパだよ」という言葉は、暗黙のうちに「たしかにおじいちゃんのように見えるだろうけど」という自己認識を前提にしている。それが嫌なのである。やっぱりそれを、認めたくないんである。

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山田清機

山田清機

山田清機(やまだ・せいき)/ノンフィクション作家。1963年生まれ。早稲田大学卒業。鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(第13回新潮ドキュメント賞候補)、『東京湾岸畸人伝』。SNSでは「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれている

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