この黙殺は100年以上続いた。いかに人間がイノベーティブ・マインドを持たず、自分の持っている既存の世界観に縛られて物事を判断しているかがわかるだろう。自分たちの臆見で科学の新発見をもみ潰してはいないか……。科学の世界に身をおくぼくらが、常に注意深く慎重でなければならないのはそのためだ。

 先ほど、人文科学者批判ともとれるコメントをした。けれども自然科学者だって、既存の世界観や思考法にこだわり、自分の世界の外にある視点や考え方を無視すると、こういう間違いを犯してしまう。養老孟司先生いうところの、「バカの壁」というやつだ。

■科学者は真逆に見える二つの仕事を、同時にアクロバティックにこなす

 ぼくらは常にイノベーティブでなければならず、既存の視点や考え方の枠の外に出る大胆さが必要になる。同時に、奇抜でインチキなトンデモ科学をチェックして正すのもぼくたちの責務である。一見、真逆に見える二つの仕事を、同時にアクロバティックにこなしていかねばならない。科学者というのは大変なのだ。

 時代は下って1789年、フランスの化学者「アントワーヌ・ラボアジエ(1743-1794)」が、糖がエチルアルコールと二酸化炭素に転換する定量的研究を行った。同様の測定をフランスの化学者「ジョセフ・ルイ・ゲイリュ=サック(1778-1850)」も行った。

■酵母が糖を食べてアルコールを排出していることを発見

 彼らは糖がエチルアルコールと二酸化炭素に変換されるという現象を観察したが、両者ともにこの化学反応が酵母による「発酵」だとは理解していなかった。
 
 ドイツの生理学者・生物学者「テオドール・シュワン(1810-1882)」はレーウェンフックが観察した酵母こそが「発酵」の立役者であると考えた。彼は細胞生物学の第一人者であり、神経細胞の軸索を取り囲む「シュワン細胞」は、彼の発見により名づけられた。
 
 シュワンは酵母が糖を食べてアルコールを排出していることを見いだし、この菌を「砂糖の真菌(ツッカーピルツ)」と名づけた。これをやはりドイツの「フランツ・メイエン(1804-1840)」がラテン語に翻訳し、サッカロミセス(Saccharomyces)と名づけ、これが属名(菌の名字=姓のようなもの)となった。この結果、ビールやパンを作る時に使う酵母はSaccharomyces cerevisiaeと名づけられた。
 
 石川雅之さんのマンガ「もやしもん」でS. cerevisiaeは一躍有名になった。ちなみに菌名のcerevisiaeはスペイン語のビール(cerveza)が語源だ。

 しかし、シュワンの主張は反論を受ける。当時、アルコールの産生は純粋な化学反応であり、微生物による「発酵」ではないという意見が強かったからだ。反論者の中にはスウェーデン人の化学者にして医者「ヨンス・ヤコブ・ベルセリウス(1779-1848)」もいた、続く。

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岩田健太郎

岩田健太郎

岩田健太郎(いわた・けんたろう)/1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現島根大学)卒業。神戸大学医学研究科感染治療学分野教授、神戸大学医学部附属病院感染症内科診療科長。沖縄、米国、中国などでの勤務を経て現職。専門は感染症など。微生物から派生して発酵、さらにはワインへ、というのはただの言い訳なワイン・ラバー。日本ソムリエ協会認定シニア・ワインエキスパート。共著にもやしもんと感染症屋の気になる菌辞典など

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