――20代はセールスマンや探偵など職を転々とした。週刊誌の記者をしながら小説の応募を続け、36歳のときに作家としてデビュー。1980年にマタギを主人公にした大作『黄色い牙』で、直木賞を受賞した。

 中学生のころ、国鉄の子会社にいたおやじが北海道の山奥で鉄道工事をしていて、部下が仕留めたヒグマの前で記念撮影した写真を送ってくれたことがあった。その写真を机の引き出しに入れて、何度も何度も見ていたことを思い出し、マタギの話にしようと思ったんです。本が出来上がって、おやじに見本の束のいちばん上の一冊を渡したら、手で大事そうになでて、「いい本ができたじゃないか」って満足そうに言ってましたね。

 直木賞が決まったのはその数カ月後。編集者とお祝いで朝まで飲んで、帰ってきて2階の仕事場でウトウトしてたら、配達されたばかりの新聞の朝刊で、おやじが僕の頭をつつくんです。「おい、載ってるぞ」って。

 そのころおやじは、重いがんで余命いくばくかという状態で、もう骨と皮みたいな体になっていました。玄関先に新聞を取りに行くのも、2階に上がってくるのも、もう無理な状態だったはずなのに。おやじなりの祝福だったんでしょうね。

 そんなこともあって『黄色い牙』には思い入れがあるし、いちばん好きな作品です。

――その後、年に何十冊も本を出す超売れっ子作家となる。1980年代後半は、数多くのバラエティー番組にも出演。独自のファッションと忌憚のない発言で人気を集めた。

 毎日、バラエティー番組に出ていました。小説を書く時間は、ほとんどない。小説に専念しろとか、書けるのにもったいないとか言う人はいましたけどね。そんな修行僧みたいな生き方は、自分には向いてない。

 出版社は、売れてるからとにかくどんどん出しましょうと言ってくる。そこで考えついたのが、マイクロカセットテープに向かって語りながら「書く」方法です。

 当時の東海道新幹線には個室があって、大阪に行くまでにその個室で片面を吹き込み、帰りに片面を吹き込んで、家に帰ってからちょっと整理すると、320~330枚ぐらいの新書が1冊出来上がってしまう。水戸黄門と同じで、ステレオタイプ化してしまえば、話はどんどん作れるんですよ。

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