本書では、後半で日本でのナボコフ受容にも触れていてここも面白い。特に『ロリータ』に対して小島信夫が「男にとって、女の理想像は、十二歳の女にあることは、誰れでも知っている。これはむしろ精神的には非常に健康的な感じ方であるはずだ」などと評しているのが、単なる時代の差だけではなく、小島のある部分を示しているとも言える。

 ところで本書は、ナボコフ批判本なのだろうか? 一見したところ、ナボコフは宣伝がうまかったので、実はそう大した作家ではないと言っているようにも見えるが、著者はなかなか慎重で、はっきりとは言っていない。最後のほうで、ナボコフは「正典化」されたが、今後もその地位を維持できるかと問うて、「(もちろん、なれなくてもまったく仕方がないのだが)。」と書いているのを見て、著者も実はナボコフは歴史に残るほどの大作家ではないと思っていることが分かった。

 のみならず、本書を著者は「私論文」と呼んでいるが、実は著者自身が、英語とロシア語双方ができナボコフを解読できる学者として比較文学界に、その世界ではわりに華々しくデビューしたのであり、ここでのナボコフの「売り出し」の手法は著者自身も用いたものであることをそれとなく自白していると言える。

 文学研究の世界では、好きな作家でなければ研究すべきでないという暗黙の了解がある。したがって秋草は、ナボコフを好きなふりをして精緻な前著を刊行して評価され、あとで「実はナボコフはそれほどの作家ではないのでは」と種明かしをしたことになる。おそらく何人かのナボコフが好きな人は、本書に怒っているかもしれない。

 実のところ私は、ナボコフがそれほどの作家とは思っていない。そう思って読むとまたひときわ味わいの違って見える絶妙な本である。

週刊朝日  2018年10月5日号