中学の成績は「学年で上から20番目くらい」と吉田。県外の野球強豪校が入学を勧めてきたこともあった。それでも、父の母校でプレーすることを固く決めていた。

 吉田は部活を引退すると、「高校野球」を視野に入れ、硬式球に慣れるために秋田北シニアに入った。そこで一緒になったのが、二塁手の菅原天空をはじめ、甲子園を戦い抜いた「ナイン」の大半だった。菅原の父・天城も金足農OBで、正樹とは同期だ。吉田と菅原は幼なじみで、その縁を感じずにはいられなかった。2人を中心に雰囲気はできあがった。

「みんなで金農行かない?」

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 グラウンド内をひたすらダッシュし、先輩に会ったら廊下に響き渡る声であいさつをする……。吉田を待ち受けていたのは、金足農の厳しい「伝統」だった。投手として入部した打川和輝と吉田は、早くも先輩たちに交じり、中学時代とは比較にならないほどのハードな練習メニューをこなした。

 入学時、最速128キロだった吉田の球速は、わずか3カ月後には140キロを記録。1年生ながらベンチ入りを果たした夏の秋田大会では、3回戦で救援登板。途中までは完璧な投球を見せるも、8回に決勝打を浴びて涙をのんだ。

 その年の秋から背番号1を託された。最速144キロの本格派として鳴らした2年生の夏は、決勝まで勝ち上がった。夢舞台まであと1勝をかけて先発を任されるも、打ち込まれて途中降板。「もっと成長して、自分の投球で甲子園に行く」。泣き腫らした顔には、すでに来年を見据え、強い決意が宿ったように映った。

 金足農の冬場のトレーニングは過酷だ。全体練習ではボールを一切使わず、走り込みや体幹トレーニングなどでひたすら体を鍛え抜く。とりわけ、早朝5時半からの約1時間のランニングで始まる冬合宿は、その厳しさで知られ、乗り越えた選手には自信や根性が染みつく。

 2年夏の悔しさを経験した吉田の変化を、監督の中泉一豊は見逃さなかった。「とにかく自分で走るようになった」

 雪の中で長靴を履き、毎日2時間も3時間も走り込んだ。時には吉田より10キロ以上重いチームメートを肩車して、ライトフェンスと本塁間の約90メートルを何往復も歩いた。中泉が「けがをしないか心配だった」と言うほど、下半身を鍛えた吉田。Lサイズのズボンが入らなくなった。

 その成果は花開く。投球の安定感が増しただけでなく、春先には課題だった制球が見違えるほどよくなり、球速は147キロを記録。満を持して臨んだ夏の秋田大会では、初戦で自己最速を150キロに更新。全5試合を完投し、決勝では前年に敗れた明桜を散発4安打に抑え、完封で雪辱を果たした。

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吉田の成長は野球の技術だけではない。