甲子園大会決勝で敗れ、人目をはばからず泣き腫らした吉田(右から2番目)(撮影/小内慎司)
甲子園大会決勝で敗れ、人目をはばからず泣き腫らした吉田(右から2番目)(撮影/小内慎司)
吉田は冬場の走り込みで強靱な下半身を作り上げ、三振の山を築いた(撮影/写真部・馬場岳人)
吉田は冬場の走り込みで強靱な下半身を作り上げ、三振の山を築いた(撮影/写真部・馬場岳人)
U18アジア選手権の日本代表に選ばれた吉田。甲子園大会の疲労があったのか、失点を重ねた。この先の野球人生の糧となりそうだ(撮影/加藤夏子)
U18アジア選手権の日本代表に選ばれた吉田。甲子園大会の疲労があったのか、失点を重ねた。この先の野球人生の糧となりそうだ(撮影/加藤夏子)
週刊朝日増刊「金足農 旋風の記憶」(税込み800円)好評発売中
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 金足農の絶対的なエースとして、記念すべき100回大会での準優勝の立役者となった吉田輝星。U18アジア選手権では日本代表に選ばれ、高校生活最後の公式戦となる福井国体(9月30日~)に出場予定だ。今後の進路も含め、吉田の動向に多くの注目が集まっている。一躍「時の人」となった彼の野球の原点を追ってみたい。

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 2001年1月、吉田は秋田市内に生まれた。保育園に入った当初は、大泣きして両親を困らせていたが、次第に友達との外遊びが大好きになり、活発な子へと成長していった。ほどなく、金足農時代に投手だった父の正樹は、所属していた草野球チームの練習に幼い吉田を連れていくようになり、吉田の目にも白球が焼きつくこととなった。

 吉田が小学校に入学すると、父は祝いの品として迷わず8千円ほどした軟式用のグラブを手渡した。「野球をやりそうだったし、そっちの方向に気持ちを向かせたかった」。正樹は笑みをこぼしながら振り返る。正樹の狙いは当たった。吉田は週末になるとキャッチボールをしてほしいとせがんだ。正樹はボールの握り方から投げ方まで丁寧に教え込んだ。

 ある日、吉田は慣れない下手投げで正樹のミットを目がけてボールを投げた。どうやらプロ野球選手のまねをしてみせたらしい。本格的に指導する正樹は我慢ができず、叱りつけた。圧倒された吉田は泣きじゃくった。

 吉田の涙は止まらなかったが、その直後に言い切った。

「まだやりたいっ」

 ほおを濡らしながらキャッチボールを再開する吉田の姿に、正樹は確信した。

「本当に野球が好きなんだな。何があってもやめないだろう」

 小学3年生になった吉田は地元の軟式野球チームに入り、投手を任された。正樹はキャッチボールを通じて、ボールの縦の回転を強く意識させた。のみ込みは決して早くはなかった。だが、頭より体で覚えるタイプだった吉田は、何度も繰り返した。吉田の熱意は家族にも伝わり、祖父の理正がキャッチボールの相手を務めれば、まだ幼かった弟の大輝も近所のグラウンドで打撃練習につきあった。

 その後、地元の天王中に進学した吉田は軟式野球部に入部し、投手として頭角を現す。部活が中心となり、親子のキャッチボールの時間はなくなったが、正樹はスライダーの握りについて助言するなどし、吉田を支えた。

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中学の成績は…