桂由美(かつら・ゆみ)/東京都生まれ。パリ留学中、ウェディングドレスに身を包んだ花嫁の美しさを見て、ウェディングドレス専門デザイナーになることを決意。世界各国30都市以上で、ファッションショーを開催。現在も、アメリカ(ニューヨーク)、ヨーロッパはもちろん、中国や東南アジアにもサロンを展開。精力的なデザイン活動を進めている(撮影/岡田晃奈)
桂由美(かつら・ゆみ)/東京都生まれ。パリ留学中、ウェディングドレスに身を包んだ花嫁の美しさを見て、ウェディングドレス専門デザイナーになることを決意。世界各国30都市以上で、ファッションショーを開催。現在も、アメリカ(ニューヨーク)、ヨーロッパはもちろん、中国や東南アジアにもサロンを展開。精力的なデザイン活動を進めている(撮影/岡田晃奈)

 もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回はブライダルファッションデザイナーの桂由美さんです。

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 もうひとつの人生があったとしたら……。私、ふたつあるんです。ひとつは演劇の世界。もうひとつはあまりお話ししたことはないのですが、実は政治家の道もあったんです。

 母親はきょうだいが多く、高等教育をあきらめざるをえなかったため、娘たちだけは大学へ行かせたいと思っていた。父は旧郵政省の官吏で、当時の給料は低かった。そこで母親は洋裁学校を立ち上げ、長女に後継者になってほしいと望んでいた。

 私は共立女子大学の出身で、卒業間際の学長は元首相の鳩山一郎先生の妻、鳩山薫先生。学生委員をしていた私は学長先生との接点も多かったんです。

 ちょうどそのころ、鳩山一郎先生が「友愛青年同志会」を設立なさった。各大学に声をかけたら、政治家を目指す男の子は大学にいっぱいいますから、男子学生は喜んで集まってきた。しかし、婦人部を取りまとめる若い女性がいない。そこで鳩山薫学長から白羽の矢を立てられたのが私だったんです。結局卒業後も、婦人部長の活動は続き、衆議院選に出る鳩山一郎先生のために、選挙カーに乗ってウグイス嬢もやったんですよ。

 母親の洋裁学校を手伝うようになってからも、政界へのお誘いはありました。当時都議会議員だった鯨岡兵輔先生(元衆議院副議長)が1963年に国政に立候補されるとき、都議会の議席が空くから選挙に、というんです。「きっとやれる。私がバックアップするから」と。

 母は慌てましてね。なにしろ跡取りですから。「お願いですから、この子を政治の世界に誘うのだけはやめてください」って頭を下げていたのを覚えています。

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