どんな疑問に対しても、唯一無二の答えというのは、この世には存在しないと私は思っています。組織に属していても、組織の論理が自分にとっての正しい答えを導いてくれるわけでもなければ、困ったときに組織が必ず助けてくれるとも限りません。結局は自分で考えて、自分なりの答えを出さないといけない。でも、それができるようになれば、本当の自由が手に入ると、私は思います。

 この連載を通じ、特にこれからを生きる若い皆さんに、折れない個人でいるためのコツみたいなものを、少しでも伝えられたらと思っています。どんな小さな悩みや相談でも結構です。日ごろ、ぼんやりと考えながら、答えが出ないようなことがあれば、とりあえずご相談ください。ひょっとするとお役に立てるかもしれません。

Q:最近の報道、例えば、政治家や官僚の国会での答弁や、不祥事に対する対応などなどを見ていると、立場のある人は都合が悪いことに対して、「記憶がない」「覚えてない」と答えて、それでいつも済まされているように見えます。僕は、覚えているのに「覚えてない」と言うのは卑劣なことだと思ってきたので、ちょっとした会話の中でも、その言葉を使う気にはなれません。でも、それなりに社会的に地位のある人が「覚えてない」で窮地を乗り切っているのを見ると、都合が悪くなったらそう言えば良いのかと、妙に納得してしまう自分もいて……。なんだか気持ちが晴れません。(東京都・29歳・男性・契約社員)

A:覚えているのに覚えていないというのは、なかなか巧妙なうそです。なぜなら、覚えていないということを、うそと実証しようがない。「覚えていない」と言っている人の心の中に入ってみないことには、それが本当かどうかわからないですからね。

 確かに、人間関係の中では、「覚えていない」としらを切ったほうが、物事がスムーズに進む局面というのは、あるものです。うそというのは、人生を乗り切る上でのある種の必要なテクニックと言えるかもしれない。場面に応じて、うまく使い分けるというのが、大人の賢さと言えるのかもしれません。

 もちろん、基本的にはうそは悪で、ダメなことです。でも、絶対にダメだと考えなくてもいい。世の中にはうそをつくしかない場面というのもあります。それは私自身にも、身に覚えがあります。

 ただ、「覚えていない」の一言で責任逃れをするのは、いかがなものでしょう。重要なのは、そのうそが「それが自分に恥じないうそかどうか」ではないでしょうか。

「うそも方便」という言葉がありますが、方便とは、仏教に由来し、人を真の教えに導くための仮の手段を指しています。重要なのは、この方便を、何のために使うか。人との関係を円滑にするためか、あるいは人を思いやってか。はたまた自分の責任逃れのためなのか。何のために、その方便を使うかに、その人の生き方が問われるのではないでしょうか。

 残念ながら、今の政治家は、責任の所在をあいまいにするために、「覚えていない」という方便を使っています。自分の責任逃れのためのうそは、他の誰かにその責任が転嫁されることになる。結果的に他人を傷つけるうそになるわけです。これはまさに、負のループとしか言いようがない。国を代表する政治家がこれなのだから、本当に情けないことだと思います。

 質問に戻って考えると、政治家や官僚のうそに、妙に納得している場合なんかではありません。都合が悪いことを「覚えていない」の一言で片づけようとするのは、自分以外の人に責任転嫁することですから、いわば裏切り行為です。私たち国民は、裏切られている側です。あなたが稼いだお金の一部を税金として彼らに預けているのですから。

 彼らは、その大事なお金をどのように使うか決められる立場にあります。そういう権力を行使する側の人間が、うそをついて責任逃れをすることに若い人が納得してしまうことほど、怖いことはありません。権力者のうそに気がつかない、あるいは気づいても容認してしまうことの怖さを、もっと考えてみてほしいと思います。

 それに、今は何とか乗り切っているように見えたとしても、責任逃れのためのうそというのは、必ず限界が来ます。自分の保身のためについたうそが、自分自身を極限まで追いつめることになり、どこかで破綻(はたん)する局面が必ず来ますよ。

週刊朝日  2018年9月7日号

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前川喜平

前川喜平

1955年、奈良県生まれ。東京大学法学部卒業後、79年、文部省(現・文部科学省)入省。文部大臣秘書官、初等中等教育局財務課長、官房長、初等中等教育局長、文部科学審議官を経て2016年、文部科学事務次官。17年、同省の天下り問題の責任をとって退官。現在は、自主夜間中学のスタッフとして活動する傍ら、執筆活動などを行う。

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