大阪桐蔭の取材に足を向かわせたもうひとつの理由が、根尾と共に今秋のドラフトで1位指名が予想される藤原恭大(きょうた)の存在だった。

 頭角を現したのは、根尾よりも早く入学間もない16年6月の沖縄招待試合。特大の一発を放ち、華々しいデビューを飾った。

 当時の私はPL学園の廃部問題をしつこく取材していた。PLの最後の部員12人の中に、藤原の兄がいた。弟も廃部にならなければ、進学予定だったという。

 藤原は根尾や中川卓也らと共に、昨年のチームでも主軸を担った。左肩の関節唇を痛め、ボールを投げられない時期もあったが、50メートルを5秒7で走る脚力で1番を打ち、昨春の選抜決勝の履正社戦では、先頭打者本塁打を含む2発をスタンドにたたき込み、日本一に貢献した。

 そんな藤原から、昨夏の甲子園で聞いた言葉が忘れられない。

「甲子園に来ると、打てなくなるんです」

 藤原は中学時代、硬式野球のタイトルを総なめするような強豪のオール枚方ボーイズに所属。140キロを超す左腕としてタイガースカップなどで甲子園のマウンドに上がっていたが、不思議といい思い出がないという。選抜における決勝の活躍こそあれ、昨年の春夏甲子園成績は37打数7安打。不満しか残らなかった。

 既に藤原は甲子園に出場することを通過点のようにしか思っていなかった。大阪桐蔭の勝利に貢献し、いかなる過程を踏んで上の舞台に駆け上がっていくか。憧れの柳田悠岐(福岡ソフトバンク)のように、トリプルスリーを狙えるような野球選手に、という将来像を描いていた。

 最強世代と呼ばれる今年の大阪桐蔭がスタートしたのは昨年8月20日。前日、甲子園の3回戦で仙台育英に敗れてしまう。

 その幕切れは悲劇的だった。七回に一塁を守っていた中川と仙台育英の走者が交錯。中川は右足のケガを負う。そして1対0とリードして迎えた最終回の守り。2死一、二塁から、捕球した遊撃手が中川に送球。だが中川はベースを踏み外し、慌てて踏み直すもセーフ。その直後、仙台育英に2点適時打が飛び出し、サヨナラ負けを喫してしまう。

 西谷浩一監督はこの敗戦をのちにこう振り返る。

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