――生まれは終戦前の旧満州。4人きょうだいの年の離れた末っ子で、一人っ子のように育てられた。

 父は旧ソ連軍に抑留されて、私たちは父の生死もわからぬまま母の郷里、長崎県島原へ。やがて父も帰国しましたが、共働きの多忙な家庭で、生活再建のために必死でした。

 私は小さいころから駆けっこや相撲が得意で、中学時代、陸上部でちょっとした記録を出しましてね。「もう少し頑張れば、全国レベルまで行けるかも……」なんて思っていたら、ある日父に引導を渡されました。

「お前は精神面が弱いからスポーツ選手としては大成しない。スポーツ選手の現役寿命はとても短い。その先に長い人生が待っているんだから、それに備えて勉強をしなさい」

 厳格な父には逆らえません。部活には退部届が出されました。

 かといってその日から真面目に勉強するわけもなく(笑)。1年の浪人生活を経て、大学に入りました。

――大学卒業後、NHKに入局。モントリオール五輪の中継や、「ニュースセンター9時」のスポーツ担当としてお茶の間にも顔と名前が浸透した。だが、もともとはアナウンサー志望ではなく、報道記者志望だった。

 合格通知には「アナウンサーとして採用」とあって、面食らいましたね。なりたいとも、なれるとも思っていませんでしたから。

 入局してからアナウンサーの立場で報道に携わるにはどうしたらいいんだろうと悩みました。そこでたどり着いた分野がスポーツだった。スポーツだけはアナウンサーが自分で取材して報じるスタイルで、最も能動的に仕事ができる分野でした。

 NHKを辞める決断にも、そうした仕事への姿勢は影響していたと思います。会議で言われたアナウンス室長の「今後アナウンス室は、報道局の指示に従ってやっていくことになった」という言葉がひっかかりました。アナウンサーは職能職域を広げようともしないまま、ただオファーを待つだけの立場で良いのか、と。

 ここではもう自分のやりたいことはできそうもない、と感じて辞める決意をしました。次の仕事が決まっていたわけではないので、今思えば無謀でしたね。

――その後の活躍は誰もが知るところ。中でも、印象に残るのは1994年にオウム真理教が引き起こした、松本サリン事件の報道だろう。日本テレビの昼のワイドショー、「ザ・ワイド」の司会者になったばかりだった。

 どのニュース番組を見ていてもサリン事件の本質が全く伝わってこない。なぜか。「戦場でも使用を禁止されているはずの毒ガス兵器の専門家がそこにいないからだ!」と気づいた。化学式を知っているだけの人たちの解説だからでした。そこでスタッフに「毒ガス兵器の専門家を探してきてほしい」と頼みました。

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