名門を再建し、甲子園春夏通算100勝目を目指す龍谷大平安の原田英彦監督
名門を再建し、甲子園春夏通算100勝目を目指す龍谷大平安の原田英彦監督
今年4月に亡くなった衣笠祥雄さんも平安の選手として第46回大会に出場。100勝目を待ち望んでいたという (c)朝日新聞社
今年4月に亡くなった衣笠祥雄さんも平安の選手として第46回大会に出場。100勝目を待ち望んでいたという (c)朝日新聞社
第24回大会で優勝した平安中の選手たち (c)朝日新聞社
第24回大会で優勝した平安中の選手たち (c)朝日新聞社

 夏の甲子園大会は100回を数えるが、その大会で春夏通算100勝目をかけ、8月11日の第1試合に登場するのが龍谷大平安(京都)だ。古豪である同校だが、原田英彦監督が再建を託されて赴任した当時は低迷が続いた。あれから25年。ユニホームの着こなし、道具への愛着、日常生活……。凛とした「平安の伝統」を説く地道な指導が浸透し、名門復活の扉は開けた

【平安の選手として第46回大会に出場した衣笠祥雄さんの写真はこちら】

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「私が監督になって21年。教え子たちがいっぱいアルプスに応援に来てくれました。大会前から、選手たちに言っていたんです。『もし優勝したらアルプス前で21回胴上げしてくれ』って」

 2014年選抜。龍谷大平安が春の初優勝を飾ったとき、三塁側アルプス前で胴上げされた原田英彦監督は、潤んだ目でそう語った。さすがに胴上げの回数は、21回とはいかず3回だったが。それにしても──1993年春、母校の監督に就任したときの原田が、この日を想像できただろうか。

 平安といえば、古豪も古豪だ。本願寺派寺院の子弟育成のため、1876(明治9)年に創立され、野球部創部は1908年。しばらくは立命館中、同志社中などが先を走っていたが、27年の全国中等学校優勝野球大会に初出場すると、そこからいきなり春夏10季連続で出場した。戦前だけで、夏は1回の優勝と3回の準優勝を重ねている。戦後も、51年夏に優勝。監督は、38年夏に初めて全国制覇したときの遊撃手・西村(旧姓・木村)進一だ。西村は、ラバウル戦線で右手首を失った。戦後復員し、48年夏に監督として母校に迎えられると、部員よりもずっと早くグラウンドに出て、右手の義手にボールをのせて左手でノックする練習を繰り返す。部員たちには、

「オレのように片腕しかない者でも、努力してノックができるようになった。君たちなら、なんでもできるはずだ」

 というのが口癖だったという。その西村が率いての優勝だから、ファンの胸を打ったに違いない。56年夏にも、3回目の優勝を果たす。このときは42年夏、幻の甲子園(全国中等学校体育大会)で準優勝したときのエース・富樫淳が監督。しかも初戦が、その幻の甲子園の決勝の相手・徳島商で、須本憲一監督もやはり、42年当時のメンバーという奇縁だった。そこを勝って勢いに乗り、夏3度目の優勝。それも含め、55年からの20年間で夏は12回、選抜も13回出ているから、甲子園には毎年出ていたようなものだ。

 だが、75年を過ぎると、その甲子園がにわかに遠くなった。74年の春夏出場を最後に、75~94年の20年間、平安の出場は春夏わずか1回ずつだけなのだ。“行って当然”のはずの舞台が、こうも長い間おあずけとなれば、平安ファンは熱心なだけに、可愛さあまって憎さ百倍だ。原田はかつて、こんなふうに回想してくれた。

「僕の現役時代も、最後の夏(78年)は京都商(京都学園)に3回戦で負けたんですが、球場からの帰りしな、ファンが傘を振り回してバスに乱入してきた(笑)。当時の(西村正信)監督さんは引きずりおろされ、ファンに責められて3時間ほど解放されませんでした。私自身も、監督になって3回目の夏、初戦で南京都に負けると、球場から帰るとき、ファンにつかまりました。『初戦負けとは、どういうこっちゃ。土下座せぇ!』言われて」 原田自身も、幼いころからの平安ファンである。

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