「大森がタッチに行っているのは、ベースをきちんと踏んでいないとまずいと思ったためです。セーフだとサヨナラで試合終了なので、極限状況でした。僕がボールにグラブを当てられたのも、樋野のストライク返球も奇跡的でしたね」

 身長167センチほどの小柄な井上さんに対し、太田さんは175センチほど。延長も終盤になればなるほど太田さんのボールに伸びが出たのに対し、井上さんは疲れ気味だったという。

「でもコントロールだけは太田投手より良かったと思います。いまは1日100球以内といった制限をしている学校がほとんどですが、あのころは1日300球投げていました。投球練習のラスト10球は、連続してインコース5球、外角5球のストライクに投げることを義務にしていました。ボールになると、また一から始める練習を毎日繰り返していました」

 コントロールに自信があったため、押し出し四球を恐れる気持ちはなかったという。延長の満塁のピンチでノーストライク3ボールになったとき、「甲子園が真っ二つになった」と振り返る。三沢サイドの三塁側応援席が総立ちになり、松山商サイドはしんと静まり返ったのを、まるで映像のように記憶しているという。そのピンチを乗り切っての引き分け。翌日の再試合で4-2で勝利し、深紅の優勝旗をつかんだ。

 最後に「夢を追いかけることの大切さ」を会場の子供たちに伝え、約40分のトークイベントは瞬く間に幕を閉じた。

 実は1日目には語りきれなかったエピソードはまだまだある。

 そもそも松山商の名将、一色俊作監督が全国制覇をするために選手を集め、どこよりも厳しい練習を乗り越えてきた猛者たちだった。

「最初に入部した1年生三十数人のうち半数以上は中学のときにピッチャーで四番でした。ところが厳しい練習であいつも辞め、こいつも辞めで、2カ月で十数人しか残りませんでした」

 それでも井上さんは部を辞めたいと思ったことはなかったという。この高校時代の出会いが新聞記者の道へとつながっていく。

次のページ
「取材の裏話」も