作新学院のある選手から聞いた。「そりゃあ、江川と対決するチームは大変だ。だけど、守っているこっちも、ものすごい緊張するんだよ。なにしろ、毎試合、パーフェクトを狙ってくるんだからね。四球か1本ヒットが出ると内野手同士で笑って目配せしたもんだよ」

 江川も試合中、仲間から「たまには守備練習させろ」と言われたことがあると話したことがある。

 彼が三振にこだわったのには理由がある。ある試合で、味方の失策で負けたことがある。このことを、亡くなった父・二美夫さんに言った。「またエラーで負けたよ」。返ってきた言葉は「ばかやろう。お前が前に打たせるから、事故が起きるんだ。前に打たせなければいい」。普通の父親なら「野球は9人でやるものだから、味方を責めるんじゃない」と言うところだ。江川自身が「僕には反抗期がなかった」と言う。江川の人生には父が大きくかかわっている。

 もともと作新学院に入学するはずではなかった。中学3年の段階で江川争奪戦は激化していた。東京の日大三からも誘いがあった。が、父は埼玉の公立の雄と呼ばれる浦和に行かせたかったのだ。「全部オヤジがやっていたからよくわからないけど、そのころ、埼玉の親戚のところに養子にいかないか、と言われたのは覚えてる」。結局、越境は認められず、直前になって作新学院受験になるのだが、これも甲子園に出られて、早大か、慶大に行ける、という父親の算段だったのではないか、と江川は回想する。

 「僕は作新学院には1番で入ったんだよ」と江川は強調する。今となっては正確に調べるすべがないが、学業と野球を両立していたのは間違いない。そこに「怪物フィーバー」だ。繊細な彼にとってはつらかったに違いない。

 その後も慶大受験失敗や「空白の1日」での日本中からのバッシング。いろんな困難があった。少し話がそれるが、筆者は江川と同学齢なので、「空白の1日」については2人でよく論議した。「そんなものは存在しない」とけんか腰で話をした。「確かにそうかもしれないが、世の中には、どうしようもないこともあるんだ」。それで議論は打ち切った。

 東京六大学でも数々の記録を打ち立て、巨人でもエースの座を手に入れ、名勝負を見せてもらった。

 が、江川卓はしみじみと言う。

「あの夏の甲子園。雨のマウンドで仲間がひとつになれたことが、すべての野球人生の中で、最も幸福な瞬間だったとはっきり言える」

(朝日新聞元編集委員・西村欣也)

※「完全保存版夏の甲子園100回 故郷のヒーロー」より抜粋