やがて、科学技術省の近くの警備小屋に配属された女性信徒と恋仲になった。「ワーク」の後で一緒にビデオを見たり、穴の開いた靴下を繕ってもらったりしたという。

 地下鉄サリン事件の実行役を断らなかったのは、恋人の存在が頭をよぎったからだ。

「断ったら制裁がある。恋人との仲がばれて私は殺され、家族にも累が及ぶ」

 と考えたという。他の実行犯が、「救済のためには殺人も許される」と教団の教義をあげ、麻原の指示は絶対だったと主張する中では異色の動機だった。麻原のことは「最終解説者だと信じていなかった」という。

 事件当日の未明、上九一色村の教団施設に実行役の5人が集まった。サリンの袋は11袋あり、他の人より1袋多い3袋を引き受けた。地下鉄日比谷線の上野駅から電車に乗り、電車を下りる間際に、サリンが入った袋を傘で少なくとも4回突き刺したという。同事件では13人が亡くなったが、そのうちの9人がこの車両だった。

 事件後は一緒に逃げた恋人がホステスなどをして稼いだ金で、東京や名古屋、京都、沖縄を転々とした。警察には「逆襲を狙っているのでは」と警戒され、マスコミからは「殺人マシン」と呼ばれたが、恋人とジョギングやケーキ作りを楽しんでいた。

 事件から1年9カ月後、沖縄県の石垣島で逮捕。地下鉄サリン事件のほか、松本サリン事件で使われた噴霧車製作に関与したとして殺人幇助(ほうじょ)罪などに、新宿駅に青酸ガス発生装置を仕掛けたとして殺人未遂罪に問われた。

 多くのサリンを引き受けた理由について、他の実行犯らは公判で、

「みんながいやがる仕事を引き受けるのが彼だった」

 と語った。二重の袋の内袋が破れ、中身がしみ出た袋も引き取っていた。

 こうした“骨惜しみをしない性格”は裁判でも認められ、一審の裁判長は求刑通りの死刑判決を下しつつ、

「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であった」

 と指摘した。2008年2月に上告が棄却され、死刑が確定した。

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“愛”求めて出家した岡崎一明死刑囚の末路