〈土谷はオウムでの地位はそれほど高くなかったが、麻原がいる第2サティアンなどに自由に出入りでき、「尊師からおすしやお好み焼きをごちそうになったこともあった」と誇らしげに語ったという〉

 土谷は麻原に目をかけられた理由を「尊師とは過去から深い縁があった」と供述したが、単純に土谷にサリンなど化学兵器を作らせようとして、麻原は土谷を特別扱いしたんだろう。

 土谷は最後まで、「サリンを作れと指示したのは村井だ」と言い、麻原をかばい続けた。実際は麻原が直接、指示したと思ったが、村井は当時、もう殺されていたのでそちらに罪をかぶせていた。

 土谷は笑いもせず、怒りもせず、泣きもせず、感情のない能面のような表情で、終始淡々と話していた。マインドコントロールが取り調べ中は解けなかった。

〈土谷の供述がきっかけで、冤罪を生んだ松本サリン事件の全容も解明された。土谷は「村井の指示で94年にサリンを作り、完成品を渡したら、「村井が『試してみる』と話していた」と語りだした〉

 松本サリン事件の前日に実行犯の中川智正らがサリンを取りにきた、と土谷は詳しく語り始めた。

 中川はその時、ファンがついた保冷車のようなトラックを持ってきたと、その絵も描いた。土谷は、サリンについてよくしゃべったが、まったく反省はしていなかった。

 土谷は地下鉄サリン事件前日に逃走し、事件当日は浜松にいた。テレビニュースで地下鉄車内にサリンがまかれたことを知った時の感想を聞いても、俺が作ったサリンを教団が本当に使ったんだなと思った」という話しぶりで、後悔しているふうには見えなかった。

 彼の裁判には一度も行かなかったが、死刑判決が出た時、当然だと思った。サリンの製造責任者で、化学兵器をまけば人が死ぬことは当然、土谷はよくわかっていたのだから。獄中で彼は「麻原を信じて失敗した」と元信者に漏らしたというが、反省の弁は述べず、修行は最後まで続けていたと聞く。土谷はすべての事件で直接、手を下した訳ではないが、死刑執行はやむを得ない結果だろう。

〈大峯氏はその後、94年に起きた元信徒の落田耕太郎さん殺害事件で逮捕された、麻原の妻の取り調べを担当した〉

 麻原の女房は殺害には加わっていないが、偶然、現場に居合わせた。彼女はサリンなど一連の事件はほとんど知らなかった。話していくうちに、彼女も麻原にだまされているなと思った。

次のページ
女性幹部との間に3人の子どもがいることは知っていたが