■のみこんだ真実

 地下鉄サリン事件から1年1カ月後の96年4月24日。東京・霞が関の東京地裁周辺には、麻原の初公判を傍聴しようと1万2292人が列をつくった。注目の罪状認否。

「絶対の幸福を得られるようにお手伝いをしたいと思う心、マイトリー、聖慈愛の実践……」

 麻原は意味不明な発言に終止し、弁護側は認否を留保した。他方、弟子たちは赤裸々に事件の内幕を証言していく。

 弁護人が麻原と意思疎通ができたのは97年の初めごろまでだった。異変が起きたのは96年10月、麻原の側近中の側近だった井上嘉浩被告(後に死刑確定)との「師弟対決」だった。

 弁護団が井上被告への反対尋問をしようとすると、麻原に遮られた。

「井上証人は私の弟子、偉大な成就者。このような人に反対尋問すると、尋問する者だけでなく、それを見聞きする者も害を受け、死ぬこともある」

 と言って、弁護人の反対尋問をやめさせようとした。

 しかし、弁護人としては、反対尋問をしなければ、井上の証言がそのまま認められてしまうため、麻原の言い分通りにするわけにはいかない。麻原と話し合うために、その日の裁判を打ち切ろうとしたが、裁判所が認めず、結局、反対尋問を強行した。

 数日後に弁護士が接見に訪れると、涙と鼻水を垂れ流し、話もできない麻原がいた。その後、法定で不規則発言を繰り返し、被告席で突然、立ち上がろうとするなどの奇行が目立つようになった。

「ここは劇場だ。裁判なんてなんの意味もない」

 と口走ったこともあった。弁護団は、そのとんでもない勘違いと思い上がりを麻原に気づかせることさえできなかった。

■「聖者のふりをすれば聖者」

 97年4月の第34回公判では一転、麻原は起訴された17事件の認否を2時間半にわたって雄弁に語った。地下鉄サリン事件については、

「自分は止めたが、結局弟子に負けた形になった」

 元信徒の落田耕太郎さん殺害事件は、

「弟子たちが直感的に殺した」

 たどたどしい英語も交え、責任を弟子に転嫁した。

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その後は3度の被告人質問でも沈黙…