当時の患者さんはね、間違いなく100%死ぬ、という病気にかかっていて、自分でもそれがはっきり分かっているわけです。医者も患者も口には出さないけれど、2年後にはここにいないかもしれない、長くて数年だろう、と思っている。外来に来るたびに、悪くなることはあっても良くなることは決してない。外来に来ている患者さんたちのそういう風景というものは、独特でしたね。特にエイズの場合、末期がんなどと違って若い人が多いですから。

 ところが、90年代半ばに革命的な薬が開発されて、突然、エイズは死なない病気になった。今は、場合によっては1日1回、1錠の薬を飲み続ければ、病気にかかっていても天寿を全うすることができる。それ以来、診療の雰囲気ががらりと変わりました。

 短期間で死ぬはずだったのが死ななくなるというのは、画期的なことです。ただ、それで患者さんのその後の人生がドラスティックにハッピーになったかというと、実はそうでもない。

 もちろん健康であることは、幸せであることの基本的な条件だと思います。でも、与えられた健康はすぐに所与のものとなり、それ以外の不満や不幸ばかりが目に入ってくる。仕事やパートナーや、人生の様々なことに対して。本当は生きているからこそ、そういうことが起きてくるのだけどね。

 HIVの青年たちは、もちろん病気のことは常に心のどこかに引っ掛かっています。でも薬を飲んでいれば、とりあえずHIVが原因で死ぬことはない。そうなると、生物的な生命予後の改良そのものはもう、幸せの対象ではなくなってしまうんです。つまり、生命予後の良さと患者さんが人生を享受するハピネス――生き甲斐とか喜びなど――は、かなり乖離しているんだなと。HIVの薬は、そんなことを気付かせてくれましたね。

■波瀾万丈を乗り越えられたのは神の存在があったから

 実は僕の両親はクリスチャンで、僕もキリスト教の信仰を持っています。今も日曜日の礼拝は欠かさない。ただ、普段は信仰の話はほとんどしませんね。合理的な説明ができるものではないし、信者以外の人から見たら、得体の知れない、胡散臭いものに違いないですから。

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