コシノヒロコ(小篠弘子)/1937年、大阪府生まれ。77年、東京コレクション参加。78年、日本人で初めてローマ「アルタ・モーダ」参加。2017年12月『HIROKO KOSHINO―it is as it is あるがまま なすがまま』(丸善プラネット)出版。今年2月、新ブランド「リエディション プロジェクト165」を発表。(撮影/写真部・小原雄輝)
コシノヒロコ(小篠弘子)/1937年、大阪府生まれ。77年、東京コレクション参加。78年、日本人で初めてローマ「アルタ・モーダ」参加。2017年12月『HIROKO KOSHINO―it is as it is あるがまま なすがまま』(丸善プラネット)出版。今年2月、新ブランド「リエディション プロジェクト165」を発表。(撮影/写真部・小原雄輝)

 もし、あのとき、別の選択をしていたら──。人生に「if」はありませんが、誰しもやり残したことや忘れられない夢があるのではないでしょうか。著名人が「もう一つの自分史」を語ります。今回はファッションデザイナーのコシノヒロコさんです。

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 高校卒業後、1年間通った洋裁学校はイヤイヤだったんです。

 私たち姉妹と母の話はドラマにもなったから(NHK連続テレビ小説「カーネーション」)、ご存じの方も多いと思います。大阪の洋装店で生まれ育った娘3人。全員がファッションデザイナーの道へ進みましたけど、私は若いころは絵描きになりたかった。高校2年まで、美大に進もうと猛勉強していたんです。

――幼少期から絵が得意だったヒロコさん。もう一つの自分史があるとしたら、それは画家の道。「美大へ行く」と宣言し、母親も応援していた。

 戦時中の、物がなくて、手に入れるなら何より食料という時代に、母は、私のためにどこかで「クレパス」を手に入れてきてくれた。それは夢のようにきれいで……。幼心にも、もったいなくて、使えなかったな。

 母は、中学に進学するときには「水彩画のいい先生がいるらしいから」と羽衣学園(私立の中高一貫校)を勧めてくれました。さらに絵の個人授業の先生までつけてくれて、高校の美術の先生に相談するほどだった。

 でも、進路相談の際に「成績もいいし、絵もできるけれど、芸大は大変に難しい。1年や2年じゃ受かりませんよ」とくぎをさされた。すると母は一転、「美大、反対」になってしまった。

「絵描きなんて食べていけるかどうかわからないよ。あんた、そんなんでどうするの?」

 高校2年生のときに母に言われたんです。戸惑いました。美術を勉強しないなら大学へ行く意味もない。かといって、ほかに道も見つからない。すると母がこう言ったんです。

「だったら洋裁学校でも行けば?」

 私は、「うわー、はめられた!」って思いましたね。

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