――その後、1952年に早稲田大学に入学。だが、生活は貧しく、売血をしなければならないほどだった。

 二十歳の自分に何か言ってやるとしたら、「よくぞ生き延びた」でしょうか。

 アルバイトだけではやっていけなくて、血を売ったことも一度や二度ではありません。週に1回ぐらい製薬会社に血を売りに行っていると、社会の最底辺にいる気がしてくるんですよね。結局、学費が払えずに抹籍になってしまいました。作家になってから学費を払って、今では正式に中退扱いになっていますが(笑)。

 将来の夢や目標より、とにかく食っていくことしか頭になかった。でも、日本は学歴社会ですから、大学を横に出た人間にまともな職なんて用意されていない。そんな中で、学歴を問われなかったのが、メディアの末端の仕事だったのです。潜り込んで、PR誌の編集者や作詞家、ルポライター、ラジオの構成作家など、雑多な仕事をやりました。

 その頃、シナリオライターになろうと思っていた。みんなと一緒にやりつつ一人でいられる仕事に憧れてたし、当時は映画の黄金時代でシナリオライターがけっこう派手な存在だった。で、日本放送作家協会に入れてもらおうと、「NHKや民放で番組の構成をしているんですけど」と言いに行ったんです。ところが、「構成作家はダメだ」と門前払いされてしまった。ドラマを書いている人が作家で、構成作家は一段も二段も見下される存在だったんです。

 そこでもまた、あらためて思いました。自分ははみ出し者として生きていこう、人が認めない部分でやっていくんだと。

 作家としてスタートした当初から、「文学」をやる気はない、読み物を書くと宣言して、ずっとエンターテインメントにこだわってきました。今でこそエンターテインメントも世の中で認められる分野になりましたけど、50年前は蔑視される言葉だったんです。だから自分は、あえてそっちで仕事をしてきた。反骨精神なんてご立派なもんじゃなくて、ひがみですね(笑)。

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