敗戦のとき僕は12歳。今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)の中学に入ったばかりでした。あの瞬間、世の中も自分の人生も、すべてが変わったのです。

 戦争が終わって、2年目に日本に引き揚げてきました。そのあいだのことは、正直、あまり思い出したくありません。極限状態で、まさに「命からがら」どうにか日本にたどり着きました。

 戦争で負けたとき、国は言うことを百八十度変えただけではない。当時、外地には軍人を含めて650万人の邦人がいました。ところが政府は「日本国内もたいへんな状態だから、在留邦人は現地に留まることが望ましい」と決めた。我々は日本という国に棄てられた「棄民」だったのです。

 一方で、敗戦の1週間ぐらい前から、平壌の飛行場ではすごい数の輸送機が離着陸を繰り返して、平壌の駅からは南に行く列車がどんどん出ていました。軍の幹部や官僚、財閥系といった“偉い人たち”は、日本がポツダム宣言を受諾することをすでに知っていたんですね。たくさんの家財道具を積んで、我先にと逃げ出していく。

 ところが、一般市民はそんな情報は知る由もない。日本の敗戦が発表されてからも、新聞が止まって唯一の情報源だったNHKのラジオは、こう放送していた。国体は護持される。治安も維持される、軽挙妄動を慎んで現地にじっとしていろ、と繰り返したんです。そうなのかと安心していたら、そのうちにソ連軍の戦闘部隊(囚人部隊)がやってきて、とんでもない状態になりました。

 人はいつの時代も、政治や権力といった大きな力にだまされる。

 すっかりだまされて軍国少年だった自分は敗戦を境に、世の中の主流に対して背を向け、そうじゃない道を歩んでいこうと決めました。それは思想というより、そういうふうに生きていったほうが納得がいくという実感ですね。愚かだった自分に誠実であるためには、それしかない。

 ですから僕は、今でも国や組織を信用していないし、棄民の恨みも消えてはいません。おかげで、ねじれた性格になりました。

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