工藤恭孝(くどう・やすたか)(左)/1950年、兵庫県宝塚市生まれ。立命館大学法学部卒業。父親が経営する書籍取次会社キクヤ図書販売に入社。76 年、事業を休止していた大同書房を引き継ぐ形で独立し、社名を「ジュンク堂書店」に変更して社長に就任。神戸・三宮に1号店をオープンした。2009年、ジュンク堂書店が大日本印刷の連結子会社に。10年に丸善書店の社長に就任。11年、ジュンク堂書店は丸善、図書館流通センターなどの共同持ち株会社CHIグループ傘下に入る。15年、丸善ジュンク堂書店の社長に就任。17年、社長を退任し、会長になる。工藤泰子(くどう・やすこ)(右)/神戸市生まれ。短期大学卒業後、1979年に恭孝氏と結婚。1男2女に恵まれる。ジュンク堂書店神戸住吉店店長、ジュンク堂書店プレスセンター店店長を務めた。その後、丸善ジュンク堂書店の相談役として、夫の秘書兼運転手を務める(撮影/横関一浩)
工藤恭孝(くどう・やすたか)(左)/1950年、兵庫県宝塚市生まれ。立命館大学法学部卒業。父親が経営する書籍取次会社キクヤ図書販売に入社。76 年、事業を休止していた大同書房を引き継ぐ形で独立し、社名を「ジュンク堂書店」に変更して社長に就任。神戸・三宮に1号店をオープンした。2009年、ジュンク堂書店が大日本印刷の連結子会社に。10年に丸善書店の社長に就任。11年、ジュンク堂書店は丸善、図書館流通センターなどの共同持ち株会社CHIグループ傘下に入る。15年、丸善ジュンク堂書店の社長に就任。17年、社長を退任し、会長になる。
工藤泰子(くどう・やすこ)(右)/神戸市生まれ。短期大学卒業後、1979年に恭孝氏と結婚。1男2女に恵まれる。ジュンク堂書店神戸住吉店店長、ジュンク堂書店プレスセンター店店長を務めた。その後、丸善ジュンク堂書店の相談役として、夫の秘書兼運転手を務める(撮影/横関一浩)

 42年前、夫・工藤恭孝さんの経営者人生は、神戸・三宮の一軒の書店から始まった。阪神・淡路大震災を経て、ジュンク堂書店(現・丸善ジュンク堂書店)は大型店の全国展開を成し遂げ、昨年秋に第一線から退いた。妻・泰子さんは運転手兼秘書として、24時間365日、夫に伴走。二人三脚の夫婦の軌跡を振り返った。

*  *  *

夫:社名の由来は親父の名前です。工藤淳を逆さまにしてジュンク堂と名付けた。26歳で1号店を出し、(妻と)出会ったときもまだ20代後半でした。

妻:私は学生で。ジュンク堂で友人らがアルバイトをしていたんです。

夫:グループでキャンプに行ったり、テニスをしたり。

妻:決め手は、スキーでした。すごくうまいんですよ。私はほぼ初心者だから、転ぶでしょ。そうすると、さっと起こしに来てくれて。

夫:あのころは若かったから。あなたも天真爛漫だったね。

妻:でもね、街で会ったらびっくり。ゲレンデではかっこよく見えたのに、別人かと。地味なスーツを着ていて、本当に誰かわからなかった。

夫:会社では、髪形は七三分けで、必ずスーツを着ていました。当時は書店の店主といったら60歳を超えている人ばかり。20代なんて青二才ですから、なめられないように“老けづくり”してたんです。

妻:私が短大を卒業すると同時に結婚しました。実家は厳しかったので、これで自由になれると思ったけど、結婚してからは主人に「こうしたほうがいい」「ああしなさい」と言われてます。なんだか保護者が代わっただけみたい(笑)。

――1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生。店舗も甚大な被害を受けた。そのまま閉店してもおかしくない状況だったが、がれきの街で再起を決意。わずか2週間で営業を再開した。

妻:地震があった日の前日まで夫婦で香港に旅行に行っていたんです。3人の子どもたちは私の実家に預けて。帰ってきたのは夜の9時半くらいだったかしら。

夫:満月がものすごくでかくて、オレンジ色で。なんか変な月やな、と思ったのをよく覚えてますね。遅くなったけど、これ以上子どもたちを預けるのはかわいそうで、夜のうちに家に連れて帰ったんです。

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