春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/1978年、千葉県生まれ。落語家。2001年、日本大学芸術学部卒業後、春風亭一朝に入門。JFN系FM全国ネット「サンデーフリッカーズ」毎週日曜朝6時~生放送。メインパーソナリティーで出演中です
私はまだその街に住んでいる(※写真はイメージ)
落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は、「新生活」。
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1997年4月。19歳で独り暮らしを始めた。豊島区の築30年くらいのアパートだ。
引っ越しも済み、独り6畳一間に寝転んで、両手両足を伸ばして屁をひとつ。流し台の窓からこちらを覗いてる男がいる。前歯のない加藤鷹似。
「引っ越しのご挨拶に来ました! 近所の者です!」。普通、引っ越しの挨拶って引っ越してきたほうがご近所を回るんじゃないのか? 「今日、越してきたんでしょ? よろしくね! 学生さん? 俺すぐそこに住んでるんで不安なことがあったら何でも聞いてね! これからは『おはよう』『こんちは』の仲だから!」。この状況がかなり不安だ。手には見たこともないパッケージの洗剤を持っている。
「あの……ことによると新聞の勧誘ですか?」
「え? あー、たまたまね。近くに住んでて、○○新聞に勤めてるんでね。とるでしょ、新聞? よかったら、はい!」
洗剤を差し出され、思わず受け取ってしまった私。
「とるよね、新聞!?」
「……いや、けっこうです……」
「だってご近所なんだよ、俺……。ここで断られたらさ……俺たち『おはよう』『こんちは』の挨拶もできなくなっちゃうと思わないっ(怒)!?」
歯なしの鷹さんは完全に猛禽類の目をしていた。豊島区はなんて怖いところなのだ。ゴッサムシティ・トシマ。あっという間に○○新聞を半年契約。「ありがとねー!」。鼻唄まじりで鷹は帰っていった。
無性に悔しくて、○○新聞のお客様センターに苦情の電話をしたが、要領を得ない謝り方で無力感が増した。「結局自分が子供なのだ……」
夕方、近所の銭湯へ。実家の周辺には銭湯がなかったので、生まれて初めて入る街の銭湯だ。湯銭は370円だったか。脱衣場のオジさんたちのチンチンは自分より遥かに巨大に見える。まだ勧誘のショックが癒えてないところにいちご牛乳がしみた。
近くのレンタルビデオ店へ。入会前に品揃えをチェック。小さな店だったが、なかなかの充実感。店の奥の18禁スペースも視察する。今日から独り暮らしなのだ。何も恐れることはない。俺は大人だ。
ビデオを2本借りて帰宅すると、ドアをたたく音がした。「お届けものです!」。開けると「△△新聞でーす!」。またか!?
かかってこいよ。俺はもう大人だよ。その手は桑名の焼きハマグリ。大人なことを呟く。
泣き落とされた。とってもらえないと社長に酷い目にあわされるらしい。すぐに3カ月契約完了。「まぁ、いいか。人助けだからな……。銭湯は週1回にしておこうかな……」
その17年後、△△新聞の系列雑誌でコラムを書かせて頂けるとは思わなかった。この連載ももう丸4年だ。銭湯もレンタルビデオ店もすでになくなり、食堂も去年閉店したが、私はまだその街に住んでいる。
※週刊朝日 2018年4月20日号