「バカ言ってんじゃねぇよ」

 と言下に否定されてしまった。

 しかし、いくら気合を入れても生理現象は止めようがない。ああ、もう限界だと思ったとき、ワゴン車が赤信号で止まった。ちょび髭親方が言った。

「信号が青になるまでにしてこい」

 大センセイ、あの寒々とした交差点の情景をいまだにはっきりと覚えている。

 現場は、大学の新校舎の中の国際会議場であった。会議場の中にたくさんの椅子を据え付けるのだが、インパクトドリルでバリバリッとボルトを締めるのは社員と期間工で、大センセイはひたすら会議場内に椅子を運び込む役割であった。

 据え付けが始まってしばらく経つと、ゼネコンの若い現場監督が現れた。この若者がまた、大変におっかない人であった。据え付けが水平に出来ていないと言って、わが方の親方を怒鳴り飛ばしている。こちらは下請けだから、頭が上がらないのだ。

 現場監督はひとしきり怒鳴り散らすと、大声で「椅子をひとつ持ってこい」と言った。誰も返事をしない。監督が大センセイの方を向いて、アゴをしゃくった。

「おい、そこの人足」

 人足!

 生まれて初めてこう呼ばれて、咄嗟にある言葉が頭にひらめいた。

「こっちだって大卒だぞ」

 これが当時の大センセイの、包み隠さぬ一角であった。もしいま同じ目に遭ったら、いったいどんな言葉を思い浮かべるだろうか。

 ちなみに現場の大学とは奇しくも、大センセイの母校であった。

週刊朝日  2018年4月20日号

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山田清機

山田清機

山田清機(やまだ・せいき)/ノンフィクション作家。1963年生まれ。早稲田大学卒業。鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(第13回新潮ドキュメント賞候補)、『東京湾岸畸人伝』。SNSでは「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれている

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