職場と自宅を往復する単調な毎日。通勤ラッシュに苦しむサラリーマンの顔も浮かぶ。そんな男性にとって、ユメノクニはまさに砂漠のオアシスに映ったのだろう。一時は200人のホステスを抱えて大繁盛する。働く動機で最も多かったのが「自分の生活費を稼ぐため」、次いで「家族を助けるため」だった。「結婚の準備金を稼ぐため」と答えた女性も多かった。

 アルサロという言葉は「レッドパージ」「特需」という言葉とともに当時の流行語になった。朝鮮戦争が勃発した年。戦時下で必要な業務の需要が特需を引き起こし、日本経済の復興もこの年から軌道に乗ったといわれている。イタリア映画「自転車泥棒」が社会と世相を反映して観客の人気を呼び、邦画では「羅生門」「きけ、わだつみの声」が公開された。

 話を戻そう。大阪で花開いたアルサロ商法はやがて東京に伝わる。銀座2丁目にあったストリップ劇場を改装して昭和28(1953)年10月にオープンしたのがアルサロ「赤い靴」だ。文字通り、英国のバレエ映画からとった名前である。支配人は大阪から上京した根尾一朗という人だった。

 純白のドレスに赤い靴がトレードマーク。テーブルチャージ無し。千円でビールが4本も飲めた。「東京ではアルサロはなじまない」と銀座の高級店の経営者たちは口をそろえたが、大いに繁盛したらしい。「赤い靴」のキャッチコピーは「偽り多き世間に、これは真実の福音です」だった。

 アルサロは働く女性にとっても画期的だった。それまで主流だった「自由チップ制」は下火になり、店の売り上げや客からの指名数で変動する「保証給制」に移行していくのである。つまり、客観的な数値で評価されるようになったのだ。

「赤い靴」に続けとばかりに「メリー」「君の名は」「白いばら」「シルバーゴールド」といったアルサロが続々と銀座にオープン。「明日では遅すぎる」「お気に召すまま」というユニークな店も登場した。何が遅すぎるのかはよく分からないが、客を引きつける絶妙なコピーであることは確かである。このころ問題になったのが従業員の引き抜き。支配人が店を移るたび、息のかかった部下も連れていったそうである。

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