「そもそも小鹿野に行く選択肢はなかったが、石山さんの指導を受ける機会があり、その日のうちにバッティングが変わった。雰囲気もいいし小鹿野に来て大正解だった。他へ行ってたらすべてが中途半端で終わったかもしれない。野球が面白く、町の方の応援が心にしみる」

 埼玉県戸田市からの山村留学生石田侑希は、小学6年の時、自転車事故で頭蓋骨(ずがいこつ)を骨折し、生死の境をさまよった。生活に支障はないが左側から後頭部にかけて骨を1本なくしたままで、今後その部分に大きな衝撃を受けたら次はなく、その危険をはらむような運動を避けなければならない。野球もその一つであるが、大好きな野球を続けたいがために死球の危険から左打ちに転向し、小鹿野で一段上の野球を求めやって来た。

「ここでさらに野球が好きになった。うまくなった実感もある。それに苦手だった勉強も試験前の仲間との勉強会で随分助けられたし、学力も少しは伸びたかな」

 石山は野球だけやっていればいいとは言わせなかった。テストで赤点を取りそうな部員がいれば、選手たちは勉強会を開いて教え合う。これも一つのチームプレーとして育まれていった。

 異色の存在がいた。同県東松山市からの山村留学生、木村太次郎(だいじろう)だ。小学4年からひきこもりで学校に通えず、中学は卒業式にすら出ていない。当然、部活もしていないわけで、小鹿野で初めて野球を始めた。親としては高校へ通うことが最大の難問かと思っていたのが、さらに寮生活に野球もするという。「いつ家に戻ってくるか」と案じる毎日だったが杞憂(きゆう)に終わった。

 学校も寮もそれに野球もこなす高校生に変身した。それまでの経緯から鑑みて奇跡というほかない。

「全てに不安はあったが、野球は楽しいし、学校から帰るのも皆と一緒で一人でいることがない。今あるのは希望だけだ」

 太次郎はベンチから大きな声を出し仲間に伝令し、相手バッテリーの間合いをストップウォッチで計測して攻撃のデータとした。また、大会の抽選のクジを引くのも彼の役で、チームに運を呼び込む役も担っている。

 ベンチを温めている時間は長いが、代打で起用されてヒットも打っている。1本や2本ではない。ベンチが最も盛り上がり、スタンドで応援する保護者らが目を潤ませて興奮する瞬間だ。

 そんな太次郎を目を細めて見つめる母・智子は、

「太次郎は学校に行けなくて小鹿野に来ました。小さな自信の一つ一つを積み重ねて強いものになっていったのかと思います」

 ちなみに太次郎は、3年間を無欠席で過ごした。

 女子マネジャーの大塚茜は本来のマネジャー業務の他に内野のノッカーも務める。試合前にバットを握った大塚の登場に対戦相手はハトが豆鉄砲を食った感じだ。キャッチャーフライもお手の物。女子高校生ノッカーは大塚が初のケースではなかろうか。

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