合唱団の中で男性は7人だけ。その一人にして最高齢の熱海廣さん(84)は結成時からのメンバーで、いつも最前列に陣取っている合唱団のシンボルだ。

「(合唱団に参加して)心の視野が広がった」

 と言う。

 もともと宮城野区沿岸部の2町(約1万9800平方メートル)余りの田畑でコメやトマト、トウモロコシなどを栽培していた。

 津波で同居していた長男を亡くし、自宅や作業場、農機具も失った。いま、市内の復興公営住宅に独りで暮らす。部屋には、震災の前年に亡くなった妻と長男の遺影が並んでいる。

 熱海さんは仮設住宅の集会所で合唱団の団員募集を知った。

「(歌う前に)集会所でみんなして笑いながら体操して、歌が終わってからのお茶飲み会が楽しかったんだおん。そして俺よっか若い人だのいっちゃ(いるでしょ)。だから明るくなったね。明るくならざるを得ねんだ。若け人たづと一緒になってっから」

 そして、指導する斎藤さんの歌声に聞き惚れた。「肝っ玉洗われるようだったさ。どっからこいな(こんな)声出んだべって。生まれて初めて聴いたの。あんなにきれいなソプラノの歌」

 少年のような張りのある声でそう語る。孫といってもいいほど年の離れた斎藤さんに、小学校時代のやさしかった音楽教師の面影を重ねている。

 昔から歌が好きだったという熱海さん。中学卒業後に入った地域の青年団で民謡歌手の手ほどきを受けた。民謡の基本は押さえていると胸を張るが、合唱団での歌い方は勝手が違ったようだ。

「節回しがまるきり違うの。楽譜なんてのも見たこともねえ。やっぱり印つけておかねとわかんねっちゃ。(音程が)上がったり下がったりすんのペンで印ばつけておくの」

 合唱団で新たな人とのつながりも生まれた。同じ復興公営住宅に住む合唱団の仲間は、集会所のイベントなどで熱海さんの姿が見えないと心配して声をかけてくれる。

「合唱団の人たづ、みな覚えて。へえんなければ(入らなければ)隣の人さもわかんねかった。だから来〜い来いって、しばらく行かねと電話よこされんだ。お茶飲みさ来いって。いいねえ、歌ばってねえんだん(歌ばかりじゃないんだ)。合唱団にへえってなければこんな気持ちになってねかもしんねえね」

 3月の公演を誰よりも楽しみにしていた熱海さんは1月下旬、脳梗塞を発症して市内の病院に入院した。「団員の人たづ、みんな待ってるもの。回復したらまた参加したい」

 再び合唱団の仲間たちと歌う日を夢見てリハビリに励んでいる。(平間真太郎)

週刊朝日 2018年3月23日号